【しかみ像とは何か】徳川家康の肖像画に残された異様な表情の意味

目次

しかみ像は、徳川美術館が所蔵する徳川家康の肖像画です。正式な作品名は「徳川家康画像(しかみ像)」で、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」という名称でも広く知られています。

最大の特徴は、一般的な武将の肖像画とは大きく異なる表情と姿勢です。

顔には深いしわが寄り、目を見開き、口元から歯が見えています。片足を上げ、手を頬付近に添えた姿も特徴的です。

通常の家康の肖像画が威厳や統治者としての風格を表現するのに対し、この作品は強い感情を表したように見えます。

作品の基本情報

しかみぞう

徳川美術館の公式作品データによると、基本的な情報は次のとおりです。

項目 内容
作品名 徳川家康画像(しかみ像)
別称 徳川家康三方ヶ原戦役画像
像主 徳川家康と認識されている
制作時代 江戸時代・17世紀
作者 不詳
作品分類 絵画
材質・技法 絹本著色
数量 1幅
本紙寸法 縦37.8cm・横21.8cm
総寸法 縦106.4cm・横32.0cm
所蔵 徳川美術館

特に注目したいのは、作者が特定されていないことと、制作年代が16世紀ではなく17世紀とされている点です。

徳川美術館の現行作品解説では、江戸時代の作品として整理されています。一方、文化庁の文化遺産オンラインには桃山時代・16世紀とする旧来の登録情報も残っています。

この年代情報の違いは、しかみ像の由来を考えるうえでも見逃せません。少なくとも、1572年の戦いの直後に描かれたと断定できる作品ではないのです。

「顰(しかみ)」という名前の由来

「顰」は、顔にしわを寄せる、顔をしかめるという意味を持つ漢字です。

しかみ像という呼び名は、作品に描かれた独特の表情に由来します。

ただし、作品が制作された当初から「しかみ像」と呼ばれていたことを示す確かな記録はありません。

2016年に徳川美術館の原史彦氏が発表した研究論文でも、この別名がいつ、誰によって付けられたのかは不明とされています。

つまり、現在の呼称そのものも、作品の成立当初から続く名称とは限らないのです。

【三方ヶ原の戦いとの関係】家康は本当に敗戦の姿を描かせたのか?

しかみ像の伝承を理解するには、まず三方ヶ原の戦いを押さえておく必要があります。

1572年、武田信玄に大敗した徳川家康

三方ヶ原の戦いは、元亀3年(1572年)12月22日、現在の静岡県浜松市周辺で起きた合戦です。

当時31歳だった徳川家康は、遠江へ侵攻してきた武田信玄の軍勢と対峙しました。

武田軍は浜松城を直接攻めず、三方原台地を進みます。これに対して家康は、武田軍を追撃するために城から出陣しました。

しかし、野戦で待ち構えていた武田軍に徳川軍は大敗。家康は浜松城へ退却することになります。

この敗北は、家康の生涯における大きな転機の一つとして語り継がれてきました。

久能山東照宮の家康公年表や浜松市の歴史資料でも、1572年の三方ヶ原の戦いで家康が武田信玄に大敗したことが確認できます。

自戒説として広まった有名なエピソード

しかみ像にまつわる伝承では、敗戦後の家康が自分の慢心を深く反省したとされています。

その伝承の筋書きは次のようなものです。

1. 家康は武田信玄との戦いで大敗する。
2. 命からがら浜松城へ逃げ帰る。
3. 自分の判断の甘さや慢心を忘れないように、敗戦時の惨めな姿を絵師に描かせる。
4. その肖像画を生涯手元に置き、二度と同じ失敗をしないよう自戒した。

この話が魅力的なのは、天下人となった家康にも大きな失敗があり、その失敗を隠さずに受け止めたという人物像が浮かび上がるからです。

成功した人物の華々しい姿だけではなく、敗北したときの姿を残すという発想には、現代の読者にも通じる教訓があります。

しかし、ここで重要なのは、三方ヶ原の敗戦そのものが史実であることと、しかみ像がその敗戦を描いた作品であることは別問題だという点です。

徳川美術館は、後者について史料的根拠がないと明確に説明しています。

自戒説を裏付ける同時代史料は存在するのか

原史彦氏の研究では、三方ヶ原の戦いに関する記録と、しかみ像の伝来記録が詳しく照合されています。

その結果、家康が敗戦直後にこの肖像画を描かせたことや、座右に置いて生涯自戒に用いたことを裏付ける同時代の記録は確認されていません。

また、江戸時代の所蔵記録にも、三方ヶ原の敗戦を描いた作品であるという説明は見当たりません。

したがって、自戒説は家康本人の命令や当時の記録によって立証された逸話ではなく、後世に形成された伝承として理解する必要があります。

【尾張徳川家の蔵帳を検証】しかみ像の伝来と歴史的記録

しかみ像の本当の由来を考えるうえで重要なのが、尾張徳川家に残された所蔵記録です。

原史彦氏の2016年の論文「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」は、作品の箱書きや蔵帳、明治期の財産目録、新聞記事などを照合し、伝承が成立した経緯を検証しています。

「東照宮尊影」と記された江戸時代の記録

研究で重要な手掛かりとなったのが、尾張徳川家の「御清御長持入記」です。

この記録には、しかみ像に該当すると考えられる作品が「東照宮尊影」と記されています。

東照宮とは、家康を神格化して祀る際の呼称に関係するものです。

つまり、少なくとも江戸時代の所蔵記録では、この作品は三方ヶ原の敗戦を描いた絵ではなく、家康の尊い肖像として扱われていたことになります。

また、記録には「聖聡院様御道具之内」とあり、聖聡院、すなわち従姫の所持品であったことも分かります。

従姫が紀伊徳川家から持参した作品

従姫は、尾張徳川家9代藩主・徳川宗睦の嫡子である治行の正室です。

1780年、紀伊徳川家から尾張徳川家に嫁ぐ際、この作品を持参したと考えられています。

従姫は1804年に亡くなり、その翌年の1805年に、作品は尾張徳川家の御清御長持へ納められました。

この経緯は、作品が最初から尾張徳川家に代々伝わっていたという単純な伝来ではないことを示しています。

また、尾張徳川家に伝来したという事実だけでは、家康本人が生前に所有していたことまでは証明できません。

しかみ像をめぐる主要人物・作品・記録の関係

エンティティ 関係・役割 確認できる内容
徳川家康 肖像の像主 東照宮の尊影として認識
武田信玄 三方ヶ原の戦いの相手 1572年に家康を破る
従姫 作品の伝来に関係 1780年に紀伊家から尾張家へ嫁ぐ
尾張徳川家 所蔵記録の継承者 「東照宮尊影」と記録
東照宮尊影 江戸時代の作品記録 家康の肖像として扱われる
徳川美術館 現在の所蔵館 17世紀の作品として公開
原史彦 研究者 2016年に伝承の成立過程を検証
松島仁 美術史研究者 武神としての礼拝像という解釈を提示

この関係を整理すると、家康の肖像であることを示す伝来上の根拠と、三方ヶ原の戦いを描いたことを示す根拠は、まったく異なることが分かります。

前者には箱書きや蔵帳という記録がありますが、後者には確かな裏付けがありません。

【自戒説はいつ生まれた?】明治から昭和にかけて変化した作品の由来

しかみ像の歴史を調べると、興味深い事実が見えてきます。

現在よく知られている三方ヶ原の自戒説は、1572年の戦いの直後から伝わっていたことが確認できる話ではありません。

むしろ、近代になって作品の説明が変化し、現在の物語へと発展していった経緯が研究によって明らかになっています。

明治時代には「長篠戦役」の肖像だった

明治13年(1880年)に作成された尾張徳川家の財産目録には、この作品に関係する名称として「長篠戦役陣中小具足着用之像」が記されています。

これは、家康の長篠合戦に関係する陣中姿の肖像として認識されていたことを示します。

ところが、長篠の戦いは天正3年(1575年)、徳川家康と織田信長の連合軍が武田勝頼の軍勢を破った戦いです。

家康側の敗戦ではありません。

さらに、1910年の『尾張敬公』などに見られる説明では、尾張徳川家初代の徳川義直が父・家康の苦難を忘れないために狩野探幽へ描かせた、という話が登場します。

ここでは、家康自身が自戒のために描かせたというより、義直が父の苦労を後世に伝えるために制作させたという筋書きになっています。

つまり、自戒の要素を含む伝承自体にも、複数の段階があったのです。

1936年、三方ヶ原の戦いとの関係が登場

大きな転換点は、徳川美術館の開館期です。

徳川美術館は1935年に開館しました。

原氏の研究によると、三方ヶ原の戦いと作品を結び付ける説明が確認できる初期の記録は、1936年1月6日付の新聞記事です。

当時の新聞は、この肖像画を三方ヶ原で敗れた家康の姿として紹介しました。

さらに、1936年1月14日の新愛知新聞に掲載された座談会では、徳川美術館創設者の徳川義親も、三方ヶ原の敗戦を記念した肖像として説明しています。

この時期を境に、作品の由来は長篠から三方ヶ原へと変化していきました。

1972年、現在の自戒説が定着

そして、1972年発行の『徳川美術館名品図録』では、作品の名称が「徳川家康三方ヶ原戦役画像」として定着します。

この解説では、浜松城へ逃げ帰った家康が敗戦を肝に銘じるために描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったという説明が加えられました。

これが現在広く知られる物語の重要な形成段階です。

原氏の論文が示した経緯を時系列に整理すると、次のようになります。

年代 作品に関する出来事 史料上の意味
17世紀 江戸時代の作品として制作 現在の美術館による年代評価
1780年 従姫が紀伊家から尾張家へ嫁ぐ 作品の伝来に関係
1805年 御清御長持へ納入 「東照宮尊影」と記録
1880年 尾張徳川家の財産目録 長篠戦役の肖像として記載
1910年 『尾張敬公』などに由来の説明 義直が父の苦難を残したという話
1936年 新聞で三方ヶ原の戦いと結び付けられる 現在の伝承の成立過程
1972年 徳川美術館名品図録を刊行 自戒説が広く定着
2016年 原史彦氏が研究論文を発表 伝承の史料的根拠を再検証
2024年 常葉大学の井上亘氏が論考を発表 武神的な肖像という解釈を再考

ここで重要なのは、1910年の説明と1936年の説明を同一視しないことです。

家康の苦難を後世に伝える話は明治期にも見られますが、現在のように三方ヶ原の敗戦と家康自身の自戒を結び付ける物語は、昭和期に形成・定着していったと考えられます。

【武神としての礼拝像説】しかみ像の表情は悔しさではなく怒り?

しかみ像の解釈を大きく変えたのが、武神として家康を祀るために制作されたという礼拝像説です。

これは単なる別の伝承ではありません。

作品の表情や姿勢、制作された時代、徳川家康の神格化という歴史的背景を組み合わせた美術史的な解釈です。

半跏思惟像に似た姿勢に注目

礼拝像説で注目されるのが、家康の姿勢です。

しかみ像は、片足を上げて手を頬付近に添えています。

この姿勢は、仏教美術に登場する半跏思惟像を連想させます。

半跏思惟像は、片足を組み、手を顔に添えるような姿勢で表現される像です。代表的な如意輪観音像などにも見られる形式です。

つまり、しかみ像の姿勢は、単に戦場で疲れ切った武将を描いたものではなく、宗教的な意味を持つ図像である可能性があります。

また、正面を向いた構図や、独特の表情も礼拝対象としての性格を考える材料になります。

顔の表情は「悔しさ」ではなく「忿怒」なのか

自戒説では、顔のしわや歯を見せた表情は敗戦の悔しさを表していると解釈されてきました。

一方、礼拝像説では、これを忿怒(ふんぬ)の表情と捉えます。

忿怒とは、仏教美術などで神仏や守護的存在が示す、怒りや威圧感を伴った表情です。

武神としての家康を描いたとすれば、厳しい表情は敗北の記憶ではなく、敵を威圧し、徳川の支配を守る存在としての性格を表現したものかもしれません。

この解釈では、作品の見え方そのものが変わります。

観察する要素 自戒説の解釈 礼拝像説の解釈
顔のしわ 敗戦の悔しさ 忿怒の表情
見開いた目 驚きや苦悩 威圧・守護の表現
口元と歯 歯ぎしり 怒りを示す図像
片足を上げた姿 戦場で疲れた姿 半跏思惟像に似た姿勢
作品の目的 自戒の記録 家康を祀る礼拝
背景 三方ヶ原の敗戦 東照大権現としての神格化

ただし、礼拝像説も制作時の注文書などで目的が直接証明されたものではありません。

図像の特徴や伝来、当時の宗教的・政治的背景を総合して導かれた解釈です。

東照宮尊影と家康の神格化

家康は1616年に亡くなった後、東照大権現として神格化されました。

徳川政権にとって、家康は単なる初代将軍ではありません。

徳川家の支配の正統性を支える存在であり、幕府と将軍家を守護する神としての性格を与えられていました。

こうした背景を考えると、家康を武神として描く作品が17世紀に制作されたとしても、不自然ではありません。

徳川家康を神格化した作品や東照宮縁起絵巻などとの関連を考えることは、しかみ像の本来の役割を理解するうえで重要です。

2024年の研究で示された新しい視点

常葉大学の井上亘氏は、2024年9月発行の『教育研究実践報告誌』第8巻第1号に「『顰面』の天下人―駿府と浜松の地政学」を発表しました。

この論考では、家康を武神として祀る肖像という見方を踏まえ、さらに家康が関東を守護し、西国を睨む存在として描かれた可能性を考察しています。

井上氏は、家康の死後、久能山の神廟で示された家康の守護神的なイメージが、紀伊徳川家を経由して尾張徳川家へ伝わった可能性にも言及しています。

ただし、これは確定した伝来経路ではなく、研究者自身も想像に基づく仮説として扱っています。

それでも、しかみ像を単なる敗戦の記念画ではなく、徳川政権の宗教的・政治的な権威を表す作品として考える視点は興味深いものです。

【しかみ像の現在の評価】2026年に知っておきたい美術史上の位置付け

2026年現在、しかみ像は徳川美術館の所蔵作品として公開情報が整備されており、三方ヶ原の敗戦を描いたという従来の伝承と、史料に基づく作品評価を区別して紹介されています。

現在の評価を理解するには、3つのポイントが重要です。

1. 家康の肖像であることと敗戦画であることは別

尾張徳川家の蔵帳に「東照宮尊影」と記録され、箱書きにも家康を示す名称が残っています。

このため、作品が家康の肖像として認識されていたことには、歴史的な裏付けがあります。

しかし、三方ヶ原の戦いを描いたという説明は、江戸時代の記録では確認できません。

家康の肖像であることは支持される一方、三方ヶ原の戦いとの直接的な関係は立証されていないというのが重要な整理です。

2. 制作年代は17世紀とされている

徳川美術館の作品情報では、江戸時代・17世紀の制作とされています。

この年代は、1572年の戦いの直後に家康自身が描かせたという従来の説明とは一致しません。

ただし、17世紀という幅だけでは家康の生前か没後かを特定できません。

作者や具体的な制作年も公表されていないため、制作の背景には引き続き研究の余地があります。

3. 自戒説は史実ではなく、文化的な伝承として評価される

自戒説は史料的根拠が乏しい一方で、長い間、多くの人に親しまれてきました。

その背景には、失敗を認め、反省を次の成功につなげるという物語の強さがあります。

徳川家康という歴史上の人物のイメージと、しかみ像の独特な表情が結び付いたことで、作品は一般の歴史ファンにも広く知られるようになりました。

歴史資料としての正確性と、伝承としての文化的価値は分けて考える必要があります。

しかみ像を見るときの判断基準

作品について調べる際には、次のような区別を意識すると理解しやすくなります。

- 史料で確認できること:家康の肖像として認識され、江戸時代の所蔵記録に「東照宮尊影」と残されている。
- 美術館が示す評価:江戸時代・17世紀の作品で、武神としての礼拝像という解釈が示されている。
- 歴史的に確認できないこと:1572年の敗戦直後に家康本人が描かせ、生涯座右に置いたという話。
- 今後の研究課題:作者、具体的な制作年、当初の制作目的、紀伊徳川家に伝来した経緯。

こうした区別を知っておけば、しかみ像を紹介する歴史番組や書籍を読む際にも、伝承と史実を混同せずに楽しめます。

【しかみ像に関するよくある質問(FAQ)】

Q1:しかみ像は徳川家康が三方ヶ原の敗戦後に描かせた絵ですか?

A1:そのように伝えられてきましたが、徳川美術館は伝承に史料的根拠がないと説明しています。現在は、三方ヶ原の戦いとの直接的な関係は立証されていません。

Q2:しかみ像はいつ制作されたのですか?

A2:徳川美術館の現行作品情報では、江戸時代の17世紀とされています。具体的な制作年や作者は特定されていません。

Q3:しかみ像は現在どこに所蔵されていますか?

A3:愛知県名古屋市の徳川美術館です。同館の公式作品検索で「徳川家康画像(しかみ像)」として作品情報が公開されています。

Q4:しかみ像の表情はなぜ怒っているように見えるのですか?

A4:従来は敗戦の悔しさと解釈されてきましたが、現在は武神としての家康を表す忿怒の表情という見方もあります。

Q5:武神としての礼拝像説は確定しているのですか?

A5:確定しているわけではありません。半跏思惟像に似た姿勢や表情、東照宮尊影という所蔵記録などから導かれた美術史的な解釈です。

Q6:自戒説はいつから広まったのですか?

A6:明治期には家康の苦難を記念したという説明が登場し、1936年には三方ヶ原の敗戦と結び付けた新聞記事が確認されています。1972年の徳川美術館名品図録で、現在よく知られる自戒説が定着しました。

まとめ:しかみ像の本当の姿は敗戦の記念画ではなく、家康の神格化を映す肖像画か

しかみ像は、徳川家康が三方ヶ原の敗戦を忘れないために描かせたという逸話で有名になった肖像画です。しかし、徳川美術館の作品解説や原史彦氏の研究をたどると、その物語には確かな史料的根拠がないことが分かります。

一方、尾張徳川家の蔵帳には「東照宮尊影」と記され、江戸時代から家康の肖像として認識されていたことが確認できます。従姫の婚礼に伴う伝来や、17世紀の制作年代も、作品の実像を考える重要な手掛かりです。

さらに、武神としての家康を祀る礼拝像説は、表情や姿勢を新しい角度から理解する可能性を示しています。自戒説が完全に証明された史実ではないからといって、作品の価値が失われるわけではありません。

むしろ、敗戦を悔やむ家康という人物像から、徳川政権を守護する神としての家康という人物像へ。しかみ像は、歴史上の人物が後世にどのように記憶され、意味付けられてきたのかを考えさせる貴重な作品です。

2026年にしかみ像を理解するなら、「三方ヶ原の敗戦を忘れないための絵」という有名な物語だけでなく、所蔵記録、制作年代、礼拝像説という3つの視点を合わせて見ることが大切です。

参考にした主な資料

- 徳川美術館「徳川家康画像(しかみ像)」作品解説
- 原史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」『金鯱叢書』第43輯、2016年
- 井上亘「『顰面』の天下人―駿府と浜松の地政学」『教育研究実践報告誌』第8巻第1号、2024年
- 文化庁「文化遺産オンライン」
- 浜松市「浜松市文化財情報」
- 久能山東照宮「徳川家康公について」