【晩年の生活】安田忠夫さんは引退後、何をしていたのか?
プロレスラーとして引退した後の安田さんは、リングを離れてからも決して平坦な人生を送っていたわけではありません。
2011年2月に引退記念興行を開催した後、さまざまな職業を経験しています。
職を転々とした引退後の生活

2026年2月11日付のENCOUNTによる追悼記事では、安田さんの引退後について詳しく紹介されています。
同記事によると、安田さんは養豚場の作業員や太陽光パネルの販売員などを経験。海外にも活動の場を広げ、カンボジアではカジノディーラー、タイでは空手道場やカラオケ店の管理人などを務めたとされています。
その後、2016年ごろから警備員の仕事を始めました。
この仕事は亡くなるまで約10年間続きました。2020年には56歳で資格を取得し、深夜の工事現場や地下鉄のホームなどで交通誘導に従事していたといいます。
現役時代の知名度に頼るのではなく、現場で働き続ける道を選んでいたことが分かります。
5人の孫をかわいがった祖父としての一面

晩年の安田さんを語るうえで欠かせないのが、孫との関係です。
ENCOUNTの報道によると、2014年に初孫が誕生。スマートフォンの待ち受け画面に孫の写真を設定するほどかわいがっていたそうです。
娘の彩美さんは、TBS NEWS DIGの取材でも、父親と子どもたちの交流について語っています。
「またプレゼントあげられるように、仕事頑張らなきゃな!」
孫へのプレゼントを買うために仕事を頑張ろうとしていたというエピソードです。
また、ENCOUNTは、安田さんが5人の孫を楽しみにしていたことも伝えています。
かつては「平成の借金王」という異名がつき、ギャンブル好きの破天荒な人物として知られました。しかし、晩年には孫を喜ばせることを楽しみにし、警備員として働き続ける姿がありました。
亡くなる2日前まで警備の仕事を続けていた

2026年2月18日付のENCOUNTによると、警備会社代表の松本英昭さんは、安田さんと亡くなる2日前まで現場で一緒に働いていたと証言しています。
松本さんが会社を立ち上げた際、安田さんは協力を申し出て契約社員として参加。人手不足を心配し、知人に仕事仲間を紹介してほしいと連絡することもあったそうです。
こうした証言から見えてくるのは、リング上の豪快な姿だけではありません。
晩年の安田さんには、仕事仲間を気遣い、家族や孫を大切にする一面もありました。
【大相撲時代】安田忠夫は孝乃富士として九重部屋で小結に昇進
安田忠夫さんのキャリアはプロレスから始まったわけではありません。
大相撲の九重部屋に入門し、力士として頭角を現したことが、後の格闘技人生につながっています。
1979年に初土俵、四股名は孝乃富士
安田さんは1963年10月9日、東京都大田区に生まれました。
中学3年生のときに九重部屋へ入門し、1979年3月場所で初土俵を踏みます。
その後、1984年3月場所から孝乃富士の四股名で土俵に上がりました。
同世代には北勝海、双羽黒、寺尾、琴ヶ梅、小錦らがおり、安田さんも「花のサンパチ組」の一人として知られました。
着実に番付を上げ、ついには三役の小結まで昇進します。
しかし、1992年5月場所を最後に28歳で力士を廃業しました。
相撲からプロレスへの転身
力士を引退した安田さんが次に選んだ舞台はプロレスでした。
相撲で培った体格や組み技の経験は、プロレスでも大きな武器になります。
ただし、相撲とプロレスでは試合の組み立て方も求められる技術も異なります。新たな競技に適応するには、相応の時間が必要でした。
1993年6月に新日本プロレスへ入門し、翌1994年2月24日、日本武道館大会で馳浩を相手にプロレスデビューを果たしています。
この転身によって、安田さんは大相撲とプロレスという異なる二つの世界で実績を残すことになります。
【新日本プロレス】ジェロム・レ・バンナ戦の勝利とIWGP戴冠
安田忠夫さんの名前をプロレスファン以外にも広く知らしめたのが、2001年大みそかのジェロム・レ・バンナ戦です。
当時のバンナはK-1を代表する強豪選手。対する安田さんは、プロレスラーとして活動していたものの、総合格闘技では大きな実績を持っていませんでした。
2001年12月31日、ジェロム・レ・バンナを撃破
2001年12月31日、さいたまスーパーアリーナで開催された「INOKI BOM-BA-YE 2001」。
安田さんはメインイベントでジェロム・レ・バンナと総合格闘技ルールで対戦しました。
試合前の予想ではバンナが優位と見られていましたが、安田さんはギロチンチョークで勝利します。
大方の予想を覆したこの結果は、当時「世紀の番狂わせ」として大きな話題になりました。
さらに印象的だったのが、試合後の光景です。
安田さんはリング上で愛娘を肩車しました。勝利の喜びと父親としての感情が重なったこの場面は、多くの視聴者の記憶に残っています。
2002年にIWGPヘビー級王座を獲得
バンナ戦での勝利から約2か月後、安田さんはプロレス界でも大きな実績を残します。
2002年2月16日、両国国技館で開催されたIWGPヘビー級王座決定トーナメント決勝戦で永田裕志を破り、IWGPヘビー級王座を初めて獲得しました。
IWGPヘビー級王座は新日本プロレスの象徴的なタイトルです。
大相撲で小結まで昇進した力士が、プロレスでも団体最高峰のベルトを手にしたことは、安田さんのキャリアを語るうえで外せない出来事です。
魔界倶楽部での活躍と2005年の退団
王座獲得後はヒールに転向し、魔界倶楽部の一員として活動しました。
リング上ではふてぶてしい態度や独特の存在感を発揮し、団体内でも強い印象を残しました。
一方、私生活ではギャンブルに関する問題などもあり、2005年1月に新日本プロレスを解雇されたと日刊スポーツは報じています。
その後はIWAジャパン、ZERO1-MAX、ハッスル、IGFなど、複数の団体に参戦しました。
2011年2月4日には後楽園ホールで引退記念興行を開催。天龍源一郎との対戦などを経て、現役生活に幕を下ろしました。
【誤解を検証】安田忠夫さんの死亡理由と過去の騒動は関係するのか?
安田さんの訃報をめぐっては、過去の私生活や健康に関する情報を今回の死因と結びつける見方もあります。
しかし、過去の出来事と2026年の死亡理由は分けて考える必要があります。
2007年の騒動が今回の死因を示すわけではない
日刊スポーツは、安田さんについて2007年に自宅で倒れていたところを発見され、救急搬送された騒動があったと報じています。
当時、一部で練炭自殺説が出ましたが、同記事によれば本人はその説を否定していました。
この過去の出来事が、2026年2月の死亡理由を示すものではありません。
過去に起きた騒動を根拠に、今回も同じ原因だったと結論づけることはできません。
「借金王」という異名だけで晩年を判断できない
安田さんはギャンブル好きで知られ、「平成の借金王」と呼ばれていました。
しかし、追悼報道で伝えられた晩年の姿は、それだけではありません。
- 約10年間にわたり警備員として勤務していた。
- 56歳で仕事に関する資格を取得していた。
- 5人の孫をかわいがっていた。
- 勤務先の同僚や会社代表との交流があった。
- 亡くなる2日前まで現場で働いていた。
これらはENCOUNTやTBS NEWS DIGの取材で伝えられた内容です。
過去の金銭問題やギャンブル歴は安田さんの人生の一部ですが、それだけで人物像のすべてを説明することはできません。
【プロの結論】死因を調べる際に見るべき3つのポイント
安田忠夫さんの訃報から分かる、情報を見極めるためのポイントは次の3つです。
1. 死亡日と発表日を区別すること。 安田さんは2月8日に亡くなり、2月10日に新日本プロレスから訃報が発表されました。
2. 発見状況と死因を混同しないこと。 自宅で倒れていたことや死亡推定時刻は、医学的な死因そのものを示しません。
3. 本人や家族、関係団体の発表と推測を区別すること。 過去の騒動やギャンブル歴から死亡理由を断定することはできません。
2026年10月30日時点で、今回確認した主要報道や新日本プロレスの訃報発表には、死因を新たに特定する情報は見当たりません。
死因に関する新たな公式発表がない限り、安田さんの死亡理由は非公表として扱うのが適切です。
【安田忠夫の死因】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:安田忠夫さんの死因は何だったのですか?
A1:2026年2月の訃報報道では詳しい死因は不明とされています。病名や具体的な死亡理由は公表されていません。
Q2:安田忠夫さんはいつ、何歳で亡くなりましたか?
A2:2026年2月8日に亡くなりました。1963年10月9日生まれで、死亡時の年齢は62歳でした。
Q3:安田忠夫さんは自宅で亡くなったのですか?
A3:はい。勤務先に出勤しなかったことを心配した同僚が自宅を訪れ、室内で倒れているところを発見したと報じられています。
Q4:安田忠夫さんの娘は最後の様子について何と話しましたか?
A4:娘の彩美さんは、亡くなる前の父親について「特に変わった様子はなかったです。いつも通りと言えば、いつも通り」とENCOUNTの取材で話しています。
Q5:安田忠夫さんは晩年、何の仕事をしていましたか?
A5:プロレス引退後はさまざまな職業を経験し、近年は警備員として働いていました。ENCOUNTの追悼記事によると、警備の仕事は約10年間続いていました。
Q6:孝乃富士と安田忠夫は同一人物ですか?
A6:はい。同一人物です。安田忠夫さんは大相撲時代、孝乃富士という四股名で活動し、小結まで昇進しました。
Q7:ジェロム・レ・バンナ戦ではどのような勝利を収めましたか?
A7:2001年12月31日の「INOKI BOM-BA-YE 2001」で、ジェロム・レ・バンナにギロチンチョークで勝利しました。この試合は格闘技界でも大きな番狂わせとして知られています。
まとめ:安田忠夫さんの死因は非公表、波瀾万丈の人生と残した功績
安田忠夫さんは、2026年2月8日に62歳で亡くなりました。
勤務先に出勤しなかったことをきっかけに同僚が自宅を訪れ、室内で倒れているところを発見。2月10日に新日本プロレスが訃報を発表しました。
一方、詳しい死因は公表されておらず、死亡理由について確定した情報はありません。
娘の彩美さんが語った普段どおりの父親の姿や、亡くなる2日前まで警備員として働いていたという仕事仲間の証言からは、突然の別れだったことが伝わってきます。
安田さんの人生は、決して順風満帆ではありませんでした。
九重部屋で孝乃富士として小結まで昇進し、大相撲を離れた後は新日本プロレスへ。ジェロム・レ・バンナを破り、IWGPヘビー級王座も獲得しました。
その後はギャンブルや金銭問題に悩み、職を転々とする時期もありました。それでも晩年は警備員として働き、5人の孫をかわいがる祖父として過ごしていました。
リング上の豪快な姿だけでなく、仕事仲間や家族に見せた日常の顔も、安田忠夫さんという人物を知る大切な手がかりです。
大相撲、プロレス、総合格闘技という3つの世界で足跡を残した安田忠夫さん。その波瀾万丈の生涯と、バンナ戦で見せた歴史的な勝利は、これからも多くのファンの記憶に残り続けるはずです。