【盲腸手術後の急逝】玉の海の死因と最期の真相
玉の海の人生を語るうえで、避けて通れないのが1971年10月11日の急逝である。
亡くなったのは27歳8カ月。横綱として円熟期を迎え、さらなる活躍が期待されていた時期だった。
虫垂炎を抱えながら土俵に立ち続けた

発端は1971年の名古屋場所前後に患った急性虫垂炎だった。
日刊スポーツの没後50年特集によると、玉の海は同年5月に虫垂炎を患い、7月の名古屋場所で全勝優勝を果たした後も体調に問題を抱えていた。
横綱としての責任感に加え、大鵬の引退相撲を控えていたこともあり、9月場所には薬で痛みを抑えながら出場したという。
さらに、1971年8月の夏巡業でも虫垂炎が再発。途中で巡業を離れることになった。
名古屋タイムズの保存記事には、名古屋場所中に玉の海が盲腸の痛みを訴え、宿舎関係者に病院を尋ねていたという当時の証言が残されている。本人は場所中であることを理由に、師匠には内緒にしてほしいと頼んでいたという。
この証言からは、横綱としての責任を優先し、自身の体調を後回しにしていた様子がうかがえる。
1971年10月11日、退院前日に起きた悲劇

日刊スポーツの報道によると、玉の海は1971年10月4日に東京・虎の門病院へ入院し、10月6日に虫垂炎の手術を受けた。
術後の経過は良好とされ、10月12日には退院する予定だった。
ところが、その前日の10月11日朝、悲劇が起きる。
午前7時30分ごろに起床し、洗面所で顔を洗った直後、突然倒れた。心臓発作を起こし、懸命な救命処置が行われたものの、午前11時30分に亡くなった。
報道で伝えられた最期の言葉は「胸が苦しい…」だった。
死因は虫垂炎そのものではなく術後の血栓症

ここで重要なのは、玉の海の死因についての正確な理解である。
日刊スポーツの当時の経緯を振り返る記事では、死因は右肺動脈幹血栓症とされている。現在の医学的な表現では、術後に発生した肺血栓症にあたる。
つまり、虫垂炎そのものが直接の死因だったわけではない。虫垂炎の手術後に血栓症が発生し、急変につながったという経緯である。
当時は、現在ほど手術後の血栓症に対する予防や管理の知識が普及していなかったことも、日刊スポーツの記事で指摘されている。
この点は、単に「盲腸の手術で亡くなった」と説明するだけでは伝わらない部分だ。
玉の海の死が相撲界に残したもの
玉の海の死は、本人や家族だけでなく、相撲界全体に大きな衝撃を与えた。
同じ日刊スポーツの記事によると、日本相撲協会は1971年12月22日、玉の海の死をきっかけとして公傷制度を制定した。
公傷制度は、土俵上の負傷などによって休場した力士が、一定の条件のもとで翌場所の番付を維持できる仕組みだった。2003年末まで続いた制度である。
一人の横綱の悲劇が、力士の健康管理や休場時の扱いを考える契機になったことは、玉の海の歴史を振り返るうえで見逃せない。
また、北の富士は没後50年の取材で、玉の海の死を深く悲しんだことを語っている。盟友を失った北の富士の証言は、二人の関係が単なる優勝争いを超えたものだったことを伝えている。
【2026年も語り継がれる理由】玉の海の評価と誤解を検証
2026年10月現在、玉の海正洋は故人であり、新たな現役記録や本人の活動情報が発生することはない。
一方、日本相撲協会の歴代横綱プロフィールには第51代横綱として現在も掲載されており、619勝305敗、幕内優勝6回という記録は昭和の大相撲を振り返る際の基本資料になっている。
玉の海が現在も評価される理由は、短命だったという悲劇性だけではない。
評価されるべきは横綱としての勝負強さ
玉の海の横綱在位は10場所。数字だけを見ると短い。
しかし、その10場所の内容は濃密だった。
- 横綱として幕内優勝4回。
- 1970年秋場所から1971年春場所まで、4場所連続で14勝を記録。
- 1971年名古屋場所では15戦全勝。
- 通算619勝305敗、幕内469勝221敗。
特に横綱昇進後に強さを増したという評価は、玉の海の特徴をよく表している。
大鵬という大横綱がまだ現役だった時代に、その壁に挑み、北の富士と優勝を争った。玉の海は、単に将来を期待されていた若手ではなく、すでに昭和相撲の中心に立っていた横綱だった。
よくある誤解と正しい情報
玉の海について調べると、似た名前の人物や、急逝に関する情報が混同されることがある。
| よくある誤解 | 正しい情報 |
|---|---|
| 玉の海は第52代横綱 | 第51代横綱。第52代は北の富士 |
| 玉乃島と玉の海は別人 | 同一人物。横綱昇進時に改名 |
| 優勝は横綱になってから6回 | 生涯の幕内優勝が6回。大関時代にも優勝している |
| 死因は盲腸炎 | 虫垂炎の手術後に発生した右肺動脈幹血栓症 |
| 横綱在位は短いので実績も限定的 | 10場所で4回の横綱優勝を記録 |
| 北の富士とは単なる同時代の横綱 | 同時昇進した盟友であり、互いを高め合ったライバル |
また、「玉ノ海梅吉」と「玉の海正洋」も混同しやすい。
玉ノ海梅吉は別人で、元力士であり、NHKの相撲解説者としても知られた人物である。玉の海正洋の改名をめぐるエピソードにも登場するため、検索時には区別しておきたい。
玉の海の記録を調べる際の判断基準
玉の海の経歴や成績を詳しく調べたい場合、情報源によって確認する内容を分けると理解しやすい。
- 公式記録を確認したい場合:日本相撲協会の歴代横綱プロフィール。所属部屋、四股名、優勝回数、通算成績、番付推移が確認できる。
- 北の富士との関係を知りたい場合:日刊スポーツの没後50年特集や、共同通信の「北玉時代」の解説。
- 当時の様子を知りたい場合:名古屋タイムズのアーカイブ。玉乃島時代の取材や名古屋場所の証言が残っている。
- 死因や最期を詳しく知りたい場合:日刊スポーツの1971年当時を振り返る連載記事。手術日、急変した状況、術後の血栓症について整理できる。
公式記録で数字を確認し、当時の報道や関係者の回想で背景を補う。この二つを組み合わせることで、玉の海の実像がより鮮明になる。
【玉の海に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:玉の海正洋の本名は何ですか?
A1:本名は谷口正夫です。1944年2月5日生まれで、1959年3月場所に玉乃嶋の四股名で初土俵を踏みました。1970年の横綱昇進を機に玉の海へ改名しています。
Q2:玉の海は何代目の横綱で、優勝は何回ですか?
A2:第51代横綱です。幕内優勝は通算6回で、生涯戦歴は619勝305敗、横綱在位は10場所でした。
Q3:玉の海の死因は何ですか?
A3:1971年10月6日に虫垂炎の手術を受けた後、右肺動脈幹血栓症を発症し、10月11日に27歳8カ月で亡くなりました。退院予定日の前日に起きた急変でした。
まとめ:玉の海正洋は短い横綱人生で昭和相撲史に名を刻んだ
玉の海正洋は、第51代横綱として幕内優勝6回、通算619勝305敗を残した昭和の名力士である。
二所ノ関部屋から片男波部屋へ移り、玉乃嶋から玉乃島、そして玉の海へと四股名を変えながら出世を重ねた。北の富士との同時昇進によって「北玉時代」を築き、右四つと強靱な足腰を武器に大相撲の中心で活躍した。
1971年7月の名古屋場所で達成した15戦全勝は、最後の優勝となった。その約3カ月後、虫垂炎手術後の血栓症によって27歳で急逝。横綱としての将来を期待されていた時期だけに、その死はあまりにも早かった。
2026年現在も、日本相撲協会の公式記録に残る戦績と、北の富士ら関係者の証言、当時の新聞資料が玉の海の実像を伝えている。
玉の海の評価を決めるのは、27歳という若さで亡くなった悲劇だけではない。横綱在位10場所で4度の優勝を果たし、最後まで頂点を争い続けた、その確かな実力である。
昭和相撲史を振り返るとき、北の富士とともに築いた「北玉時代」は、短くても忘れがたい時代として記憶され続ける。