【公文書から再検証】堺倉吉一家と酉蔵の死亡記録に残る謎
4人死亡説を検討するうえで、見落とせないのが酉蔵の死亡記録です。
酉蔵はなぜ死亡者として数えられなかったのか

明治11年1月19日付の記録では、堺家への襲撃によって2人が即死し、ほかの2人が重傷を負ったと報告されています。
ところが、翌月22日の上申書録には、重傷者の一人である酉蔵が1月19日に死亡したと記されています。
つまり、襲撃直後の報告と、その後に提出された死亡状況の報告には時間差がありました。
この違いが、後世の研究者による被害者の集計に影響したと考えられます。
酉蔵は姓が不詳で、身元に関する情報も限られています。さらに、古い記述には堺家の雇人を女性とするものもあります。
2025年の中山氏の記事では、妻利津とともに逃げた女性の雇人は「お嘉代」だった可能性にも触れています。ただし、酉蔵との関係を確定する資料は示されていません。
この点からも、名前が記録されている人物と、後世の物語に登場する人物を安易に同一視することはできません。
堺倉吉の家族はどのような生活を送っていたのか
札幌市東区の郷土史資料を紹介した報道には、明治4年の『札幌郡丘珠村人別調』に堺倉吉の名前が記載されていたことが紹介されています。
そこには、堺倉吉の妻として利津、子どもとして政、母として喜都の名前が記録されていました。
事件当時の家族構成については、別の長男・留吉の記録もあります。
当時の開拓民は、厳しい自然環境の中で生活基盤を築いていました。現代のような交通網や医療体制も整っておらず、冬の夜に猛獣が侵入することは、家族全員の生命を脅かす重大な危機でした。
妻の利津が石沢定吉に救われたことは、事件の中で残された数少ない救助の記録です。
【人食いヒグマの正体】冬眠・手負い熊と北海道大学植物園の剥製
札幌丘珠事件のヒグマは、後世に「人食い熊」として語り継がれています。
しかし、この呼び名だけでは事件の本質は理解できません。
「穴持たず」とは何だったのか
北海道の熊害史に登場する「穴持たず」とは、冬眠穴に入らず、冬季にも活動している熊を指す伝統的な表現です。
ヒグマは一般的に、秋に大量の餌を食べて脂肪を蓄え、冬になると活動を低下させて冬眠します。
北海道大学の坪田敏男教授による2023年の研究論文『クマ類の冬眠―繁殖との関係』では、ヒグマの冬眠が生理的にどのような仕組みで維持されるのかが解説されています。
また、札幌市円山動物園の解説では、食物不足によって冬眠開始が遅れるという従来の説明には見直しが必要で、食物が不足する年にはむしろ早く冬眠に入る傾向があると紹介されています。
したがって、丘珠事件のヒグマが冬に活動していた理由を、単純に空腹だったからと断定することはできません。
考慮すべき要素は次のとおりです。
- 猟師との遭遇による負傷。
- 冬眠穴をめぐる環境の変化。
- 人間との接触による警戒・攻撃行動。
- 人間を襲った後の捕食行動。
事件の記録からは、ヒグマが複数の人間を襲い、遺体の一部を摂食したことが伝えられています。しかし、最初の襲撃が防御的な攻撃だったのか、その後の襲撃が捕食を目的としたものだったのか、個体の行動を完全に再現できる資料は残されていません。
人食いヒグマとは、生物学上の特別な種類ではなく、人間を襲い、捕食した個体を説明する表現です。
ヒグマの胃から見つかったもの
この事件が北海道の熊害史に強く刻まれた理由の一つに、加害ヒグマの解剖があります。
事件後、ヒグマは札幌農学校に運ばれ、解剖されたと伝えられています。
明治44年(1911年)の八田三郎による『熊』や、その後の事件紹介記事では、胃の内容物から被害者の身体の一部が発見されたと説明されています。
具体的には、赤ん坊の頭巾や手、妻の頭皮、被害者のものと考えられる足などが挙げられています。
これらは当時、アルコール漬けの標本として保存され、ヒグマの剥製とともに博物館で展示されたと伝わっています。
北海道大学植物園博物館のヒグマ剥製は現存するのか
この事件を調べるうえで興味深いのが、
北海道大学CoSTEPの2021年8月30日付の記事では、1878年の丘珠事件のヒグマについて、剥製と胃の内容物が植物園博物館の収蔵庫に保管されていると紹介しています。
同記事によれば、一般公開されているわけではありません。
ここで注意したいのが、植物園博物館の入口に展示されているヒグマとの混同です。
CoSTEPの記事が紹介している入口の剥製は、1890年(明治23年)4月に牧場を襲い、手稲駅周辺で屯田兵に射殺された別のヒグマです。
つまり、1878年の丘珠事件のヒグマと1890年のヒグマは別個体です。
北海道大学植物園の公式資料によると、博物館部門は北方域を中心とする哺乳類の剥製、毛皮、骨格標本を約15,000点所蔵しています。
ただし、現在の公開コレクション一覧だけでは、丘珠事件の個別標本や胃内容物の最新の保存状態まで確認できません。
事件の日付が12月25日とされていた理由
もう一つ、歴史資料を読む際に注意したい問題があります。
八田三郎の『熊』には、1878年12月25日の夜に堺家が襲われたという記述があります。
しかし、北海道立文書館の明治11年2月22日付記録では、襲撃は1月18日午前3時とされています。
2025年の中山氏による再検証では、八田の記述が1875年12月8日に虻田郡弁辺村(現在の豊浦町)で発生した別の熊害事件と混同された可能性が指摘されています。
両事件には民家への侵入や人間への襲撃という共通点があり、後世の記述で混乱が生じたと考えられています。
したがって、札幌丘珠事件の発生日については、1878年1月18日未明を基準に整理するのが適切です。
【2026年最新報道】丘珠事件から約150年、札幌のヒグマ問題はどう変わったか
札幌丘珠事件は、単なる明治時代の歴史的な熊害として終わったわけではありません。
2026年には、札幌市東区で発生した現代のヒグマ被害を振り返る報道の中でも、歴史的な事件として取り上げられています。
2021年6月18日の札幌市東区ヒグマ襲撃
2021年6月18日、札幌市東区の市街地にヒグマが出没しました。
この熊は約8時間にわたって市街地を移動し、自衛隊員や付近の住民など4人に重軽傷を負わせました。
2026年6月19日、北海道文化放送は事件から5年を迎えたことを受け、被害者やヒグマ対策の現状を報道しています。
報道では、被害者の一人である安藤伸一郎さんが、全身で140針を縫う重傷を負い、5年後も痛みや後遺症に悩まされていることが紹介されました。
また、2024年にも手術を受け、治療費の自己負担が約300万円に達したことも伝えられています。
この報道で注目されるのは、ヒグマ被害が襲撃された本人だけでなく、その後の生活や仕事、経済状況にまで影響するという点です。
現代のヒグマ対策はどう変わったのか
2021年の事件を受け、札幌市や警察、猟友会などの連携体制も見直されてきました。
北海道文化放送の2026年報道では、札幌支部のヒグマ防除隊長が、行政・警察・ハンターの連携や、現場での対応手順の整備について説明しています。
市街地でヒグマを発見した場合、山中での対応とは異なり、周辺住民の安全確保、交通規制、射撃環境の判断など、複数の条件を同時に考えなければなりません。
明治時代の開拓地である丘珠村と、住宅や道路が広がった現在の札幌市東区では、社会環境は大きく異なります。
しかし、人間の生活圏にヒグマが入り込むという問題は共通しています。
2026年9月にも4人死亡説が再び紹介
2026年9月9日付のプレジデントオンラインの記事でも、北海道の人食いヒグマの歴史を扱う中で、札幌丘珠事件の犠牲者について言及されています。
同記事では、一般に3人とされてきた死者数について、蛯子勝太郎を含む4人という整理が改めて紹介されています。
また、札幌市東区の郷土史資料に由来する丘珠事件のヒグマの剥製写真も取り上げられています。
この2026年の記事は、新たな公文書が発見されたという発表ではありません。2025年に提示された史料分析を踏まえ、4人死亡説を再び取り上げたものです。
2026年10月31日時点で押さえておきたいのは、死者数の議論が単なるネット上の噂ではなく、北海道立文書館の所蔵記録と研究者による史料の照合に基づいていることです。
【札幌丘珠事件】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:札幌丘珠事件はいつ起きた事件ですか?
A1:1878年(明治11年)1月18日午前3時ごろ、現在の札幌市東区丘珠町にあたる丘珠村で発生しました。事件前日の夜から未明にかけての襲撃であり、1月17日深夜から18日未明の事件として紹介されることもあります。
Q2:札幌丘珠事件の死者数は3人と4人のどちらが正しいですか?
A2:堺倉吉宅への襲撃による死亡者は3人です。堺倉吉、長男留吉、雇人酉蔵が該当します。一方、事件の前段階で同じヒグマに襲われた蛯子勝太郎も含めると、合計4人になります。2025年の史料分析では、この4人死亡説が提示されています。
Q3:堺倉吉の妻・利津は助かったのですか?
A3:はい。利津はヒグマに襲われて重傷を負いましたが、雇人の石沢定吉によって救出され、生存しました。石沢定吉の救援行為は、1878年2月22日付の開拓使文書にも記録されています。
Q4:札幌丘珠事件のヒグマは冬眠中に撃たれたのですか?
A4:北海道大学CoSTEPの解説では、猟師が冬眠中のヒグマを仕留め損ね、負傷させたことが発端とされています。ただし、開拓使の公文書に詳しい発砲状況が記録されているわけではありません。蛯子勝太郎の死亡と、その後のヒグマの移動については別の行政記録から確認できます。
Q5:丘珠事件のヒグマの剥製は現在どこにありますか?
A5:北海道大学CoSTEPの2021年の記事では、丘珠事件のヒグマの剥製と胃の内容物は北海道大学植物園博物館の収蔵庫に保管されていると紹介されています。一般公開はされていません。また、博物館入口に展示されている1890年のヒグマとは別個体です。
Q6:2026年になって新しい事実が判明したのですか?
A6:2025年11月に公表された史料分析が、4人死亡説を裏付ける重要な動きとなりました。2026年にはプレジデントオンラインなどでもこの見解が再紹介されています。ただし、2026年に新しい一次史料が発見されたという発表とは区別する必要があります。
まとめ:札幌丘珠事件の真相を知る鍵は開拓使公文録にある
札幌丘珠事件は、1878年1月に北海道の丘珠村で発生した、開拓時代を代表する凄惨なヒグマ襲撃事件です。
事件の発端には、冬眠中のヒグマを猟師が仕留め損ねたという経緯が伝えられています。その後、蛯子勝太郎が襲われ、ヒグマは平岸、月寒、白石、雁来方面を経て丘珠村へ移動し、堺倉吉一家を襲撃しました。
死者数については、堺家での3人に蛯子勝太郎を加えた合計4人死亡説が、2025年の史料分析によって改めて提示されています。とりわけ、酉蔵が襲撃翌日の1月19日に死亡したという記録は、従来の集計を見直す重要な手がかりです。
また、北海道大学植物園博物館に残るとされるヒグマの剥製と胃内容物は、事件が単なる伝説ではなく、明治期の人間と野生動物の関係を伝える歴史資料でもあることを示しています。
2026年の札幌でも、市街地に出没するヒグマへの警戒と対策は続いています。明治時代の丘珠事件と現代の熊害を比較することで、野生動物との共存には、個体の行動を理解する科学的知見と、地域全体での危機管理が欠かせないことが見えてきます。
歴史上の事件を正確に理解するためには、刺激的な「人食い熊」の物語だけでなく、北海道立文書館の公文書、札幌市の郷土史、北海道大学の研究資料を組み合わせて読むことが大切です。
札幌丘珠事件の真相は、3人か4人かという数字の問題だけではありません。開拓の歴史の中で失われた命と、その記録を後世に伝えることの意味を問いかける事件なのです。