尼港事件とは何か?1920年の虐殺とシベリア出兵、北樺太占領の全貌を徹底解説
尼港事件(にこうじけん)とは、1920年(大正9年)、ロシア極東のニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)で発生した、日本軍守備隊とロシア革命勢力のパルチザンとの武力衝突、および日本人居留民や捕虜らが殺害された一連の事件です。指導者ヤーコフ・トリャピーツィン率いるパルチザン部隊との戦闘で日本軍は大きな損害を受け、その後、収容されていた日本人捕虜も殺害されました。さらに、市街地は焼き払われ、日本人だけでなく現地住民も甚大な被害を受けました。
事件の背景には、1917年のロシア革命、ロシア内戦、そして1918年から続いていたシベリア出兵があります。日本政府は事件を受けて北樺太(北サハリン)の保障占領を実施し、日ソ国交回復交渉でも尼港事件は大きな外交問題となりました。2026年現在、外務省外交史料館の『日本外交文書』、国立公文書館の公開記録、北海道立文書館の所蔵資料、歴史研究を照合すると、犠牲者数や戦闘開始の経緯には資料ごとの違いがあることも分かります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 事件の概要:1920年、ロシア極東のニコラエフスクで日本軍とパルチザンが衝突し、日本軍守備隊や日本人居留民が犠牲になった。
- 犠牲者数:日本人の犠牲者は、軍人351人・民間人383~384人とする資料がある一方、米国外交文書に記録された初期推計は軍人306人・居留民350人だった。
- 歴史的影響:事件を受けて日本は北樺太を保障占領し、1925年の日ソ基本条約締結とその後の撤兵によって外交上の決着を図った。
【事件の全体像】尼港事件とは?発生場所と1920年の歴史的背景

ニコラエフスク・ナ・アムーレとはどんな場所だったのか
尼港事件の舞台となったのは、ロシア極東、アムール川(黒竜江)の河口に位置するニコラエフスク・ナ・アムーレです。日本では当時、地名を略して「尼港」と呼んでいました。
同市はオホーツク海に面した漁業・交易の拠点で、日本人商人や職人なども活動していました。日本領事館も置かれ、日本とロシア極東地域を結ぶ経済・外交上の重要な都市でした。
日本軍はシベリア出兵の一環として1918年9月に同市を占領しました。1920年冬には、日本人居留民約380人、陸軍守備隊1個大隊、海軍通信隊約350人が存在したと『改訂新版 世界大百科事典』は説明しています。
つまり、尼港には軍事拠点としての側面と、日本人が生活・商業活動を営む居留民社会としての側面がありました。事件は軍隊同士の戦闘だけでは終わらず、一般市民を巻き込む悲劇へと拡大していきます。
事件が起きた1920年のロシア情勢
1917年のロシア革命によって帝政ロシアは崩壊し、ボリシェヴィキを中心とするソビエト政権が成立しました。しかし、革命後のロシアでは新政権を支持する勢力と反対する勢力が各地で争い、国内は深刻な内戦状態にありました。
極東地域でも、正規軍だけでなく、地域住民や革命派によって構成された武装集団が活動していました。こうした非正規武装勢力はパルチザンと呼ばれます。
日本軍の駐留は、現地の革命勢力から見れば外国軍による軍事介入でした。一方、日本政府は居留民保護や地域の秩序維持を駐留の理由としていました。
この両者の認識の違いに、ロシア内戦の激化、軍事的緊張、現地住民との対立が重なり、尼港事件につながる状況が形成されていきました。
【原因と背景】シベリア出兵とロシア革命、トリャピーツィンの関係
シベリア出兵はなぜ始まったのか
シベリア出兵は、第一次世界大戦末期の1918年、日本・アメリカ・イギリス・フランスなどがロシア極東へ軍隊を派遣した軍事介入です。
当初は、ロシア国内に取り残されていたチェコスロバキア軍団の救援が派兵の名目でした。しかし、ロシア革命によって成立したソビエト政権への干渉や、極東地域における自国の影響力確保という政治的・軍事的思惑も存在していました。
国立国会図書館の「史料にみる日本の近代」によると、日本政府内では当初、出兵に慎重な意見もありました。外務大臣の本野一郎が積極的な出兵を主張した一方、寺内正毅内閣は慎重な姿勢を示していました。
その後、アメリカがチェコスロバキア軍救援のための日米共同派兵方針を決定すると、日本も出兵に踏み切ります。1918年8月2日には日本政府が出兵を宣言しました。
しかし、第一次世界大戦の終結後、チェコスロバキア軍救援という当初の目的は次第に薄れていきます。アメリカは1920年1月に撤兵を通告し、ほかの連合国も撤退しましたが、日本は駐留を継続しました。
日本軍の駐留継続は、現地の革命勢力との対立を深める一因となりました。尼港事件を単独の突発的な襲撃として理解するのではなく、シベリア出兵という国際政治上の大きな枠組みの中で捉える必要があります。
ヤーコフ・トリャピーツィンとは何者だったのか
尼港事件を理解するうえで欠かせない人物が、ヤーコフ・イワノヴィチ・トリャピーツィン(Yakov Tryapitsyn)です。
彼はロシア内戦期のアムール川下流域で活動したパルチザン勢力の指導者で、1920年初頭には約4,000人とされる部隊を率いてニコラエフスク周辺に進出しました。
トリャピーツィンは、一般にアナーキスト系の指導者として紹介される人物です。ただし、彼の率いた軍事組織には複数の政治的立場を持つ構成員が存在し、当時のボリシェヴィキや現地ソビエト組織との関係も単純ではありません。
カリフォルニア大学の研究資料『Japan's Response to the Russian Revolution: Anarchism, Socialism, and Pan-Asianism in the early 1920s』でも、ソビエト側がトリャピーツィンをボリシェヴィキではなくアナーキストと位置づけたこと、事件後の1920年7月に彼が処刑されたことが記されています。
ここで重要なのは、パルチザンの行動とソビエト中央政府の政策を、すべて同一視できないという点です。事件後、革命政府側もトリャピーツィンを処罰しており、当時のロシア極東における権力関係の複雑さが表れています。
【戦闘から捕虜殺害まで】尼港事件の経緯を時系列で整理
1920年2月5日、日本軍守備隊が降伏
1920年1月から2月にかけて、トリャピーツィン率いるパルチザン部隊はニコラエフスク周辺で勢力を拡大し、日本軍守備隊を包囲しました。
2月5日、日本軍は圧倒的な兵力差の中で降伏を余儀なくされます。その後、日本側とパルチザン側の間では停戦協定が結ばれました。
しかし、この停戦は長続きしませんでした。双方の不信感が強く、武器の取り扱いや軍事的な主導権をめぐって緊張が続いていました。
3月12日、日本側の反攻と激しい市街戦
3月12日深夜、日本側はパルチザン司令部に対する奇襲攻撃を実施しました。これは降伏後の状況を覆すための反攻でしたが、作戦は失敗に終わります。
『山川 日本史小辞典 改訂新版』は、この攻撃を日本側による奇襲と説明しています。また、日本側の攻撃後、パルチザン側の反撃によって戦闘は激化し、日本軍は壊滅的な損害を受けました。
戦闘の結果、日本人の将兵や居留民の一部は死亡し、生き残った人々も拘束されました。捕虜の人数については、資料によって122人、130人余りなどの違いがあります。
この戦闘経緯は、尼港事件を考える際の重要な論点です。日本側の被害が重大であったことと、戦闘再開に至る経緯を検証することは、別々に考えなければなりません。
5月25日、捕虜殺害と市街地の焼失
戦闘後、拘束されていた日本人の多くは監獄などに収容されました。日本側は救援部隊の派遣を進めましたが、厳しい気象条件や交通事情によって、現地への到着には時間がかかりました。
1920年5月25日、パルチザン側は日本人捕虜を殺害し、撤退に際して市街地に火を放ちました。ニコラエフスクの市街は大きな被害を受け、現地住民の生活基盤も失われました。
アメリカ国務省の外交文書『Foreign Relations of the United States, 1920』に収録された1920年6月17日付の在日米国代理公使ベルの電報は、日本政府の発表を伝えています。それによると、日本軍の救援隊は6月3日に現地へ到着しましたが、その時点ではパルチザンはすでに撤退しており、捕虜の生存者も確認できませんでした。
尼港事件の主要な出来事と関係者一覧
| 時期 | 関係者・組織 | 出来事と歴史的意味 |
|---|---|---|
| 1917年 | ロシア革命勢力 | ロシア革命により帝政が崩壊し、内戦へ向かう。 |
| 1918年8月 | 日本政府・連合国 | チェコスロバキア軍救援などを名目にシベリア出兵を開始。 |
| 1918年9月 | 日本軍 | ニコラエフスクを占領し、軍事拠点を設置。 |
| 1920年2月5日 | トリャピーツィン率いるパルチザン・日本軍守備隊 | パルチザン部隊の進出により、日本軍が降伏。 |
| 1920年3月12日 | 日本軍・パルチザン | 日本側の奇襲反攻が失敗し、戦闘が激化。 |
| 1920年5月25日 | パルチザン・日本人捕虜 | 拘束されていた日本人が殺害され、市街地が焼失。 |
| 1920年6月3日 | 日本軍救援部隊 | 救援隊がニコラエフスクに到着。 |
| 1920年7月 | 日本政府・トリャピーツィン | 日本が北樺太保障占領へ進み、トリャピーツィンは革命政府側に処刑される。 |
| 1925年1月20日 | 日本・ソビエト連邦 | 日ソ基本条約に調印し、国交を樹立。 |
| 1925年5月 | 日本軍 | 北樺太からの撤兵が完了。 |
この時系列から分かるのは、尼港事件が3月の戦闘だけで完結した出来事ではないということです。2月の降伏、3月の反攻、5月の捕虜殺害、6月の救援隊到着という複数段階を経て、北樺太占領や日ソ交渉へとつながりました。
【犠牲者数の真相】尼港事件で日本人は何人殺害されたのか
尼港事件を調べる人が特に疑問を持つのが、犠牲者数です。日本人の犠牲者は約700人と説明されることが多いものの、公的文書や歴史事典、研究資料では具体的な人数に違いがあります。
米国外交文書に残る約656人という初期推計
1920年6月17日付の米国外交文書には、日本外務省の発表内容が記録されています。
同文書によると、ニコラエフスクには1919年6月末時点で日本人居留民353人が登録されていました。内訳は男性169人、女性184人です。
そのうえで、当時の日本政府は犠牲者数について、保守的な推計として居留民約350人、軍人306人と判断していました。合計すると約656人です。
この数字は事件発生直後の調査状況を反映したものであり、米国外交文書も正確な犠牲者数は確定していないと記しています。
351人・383人・384人という別の数字
一方、ブリタニカ国際大百科事典の解説では、軍人351人、日本人居留民383人が殺害されたと説明されています。合計は734人です。
また、カリフォルニア大学の研究資料では、軍人351人、民間人384人という数字が示されています。こちらの合計は735人となります。
主な数字を整理すると、次のようになります。
- 約656人:1920年6月の米国外交文書に記録された日本政府の保守的な推計。居留民約350人、軍人306人。
- 734人:ブリタニカ国際大百科事典の記述。軍人351人、居留民383人。
- 735人:カリフォルニア大学の研究資料の記述。軍人351人、民間人384人。
- 700人余り:歴史事典などで広く使用される概数。
なぜ犠牲者数が一致しないのか
数字の違いには、調査時期や集計対象の違いがあります。
事件発生直後は、現地の市街地が焼失し、日本側の生存者もほとんど確認できない状況でした。居留民の登録人口を基準にした推計と、軍人の被害記録を組み合わせた推計では、当然ながら集計結果に差が生じます。
さらに、3月の戦闘で死亡した人と、5月25日の捕虜殺害によって死亡した人をどのように分類するかという問題もあります。
そのため、2026年時点で参照できる資料を比較する場合、単一の数字を絶対的な確定値として扱うよりも、約656人という初期推計と、734~735人という後年の記述を区別することが適切です。
なお、被害は日本人だけに限られません。『世界大百科事典』は、約8,000人のロシア人住民がいた市街地も焼失し、その住民にも多数の犠牲者が出たと説明しています。尼港事件は、日本人居留民の虐殺であると同時に、ロシア極東の都市社会そのものが破壊された悲劇でもありました。
【公文書から検証】外務省外交史料館・国立公文書館に残る尼港事件の記録
尼港事件を歴史的に検証する際には、当時の新聞報道だけでなく、外交文書、軍事関係記録、地方文書館の所蔵資料を組み合わせることが重要です。
外務省外交史料館と『日本外交文書』
外務省外交史料館は、近代日本の外交に関する公文書を保存・公開している機関です。『日本外交文書』には、ロシアとの交渉や尼港事件後の外交政策に関する資料が収録されています。
アジア歴史資料センター(JACAR)では、外務省外交史料館所蔵の「尼港事件/大正九年尼港及『オコーツク』事件ニ因ル損害救恤並満洲及支那ニ於ケル各種事件ニ因ル損害救恤関係」という文書群を確認できます。
第一巻は406点規模で、第二巻も公開されています。これらは主に1935年以降に作成された救恤関係の記録であり、犠牲者への救済や政府の事後対応を調べるうえで重要です。
ただし、事件発生時の戦闘記録そのものと、15年後に作成された救恤関係文書は性格が異なります。文書の作成年代や作成目的を把握することで、史料の意味をより正確に理解できます。
国立公文書館の尼港事件関連記録
国立公文書館デジタルアーカイブには、尼港事件に関連する英文資料「Circumstances of the Massacre at Nicolaevsk」が収録されています。
また、1920年4月27日付の東京朝日新聞による現地派遣隊報告に関する資料も確認できます。これらは、事件の情報が当時どのように収集・伝達されたのかを調べる手掛かりになります。
注意したいのは、国立公文書館の資料には後年に収集・移管された文書も含まれていることです。資料が公文書館に保存されているという事実と、事件発生時に作成された一次資料であるということは、必ずしも同じではありません。
北海道立文書館が所蔵する「尼港事件記録」
地方史料として注目されるのが、北海道立文書館の所蔵資料「尼港事件記録」です。
同館の公開情報によると、この資料は2019年10月17日に個人から寄贈されたもので、資料年代は大正9~10年頃です。
内容には、1921年6月11日付の「市街ニ於ケル戦跡説明」と、1920年7月13日にエスレポルスキーという人物の記述を和訳した記事が含まれています。後者は、目撃者の実話と著者自身の観察を基礎として記述されたものとされています。
こうした資料は、外交当局の報告とは異なる角度から、現地の戦闘状況や市街地の被害を考えるための手掛かりになります。
尼港事件の史料を調べる際には、次のような観点を意識すると理解が深まります。
- 外務省外交史料館:日本政府の外交政策、救恤、日ソ交渉。
- 国立公文書館:政府文書、関連資料、後年の記録整理。
- 北海道立文書館:現地状況を伝える個人所蔵由来の資料。
- 米国国務省外交文書:当時の日本政府発表と米国側の外交的な情報収集。
- 大学の歴史研究:日本側・ロシア側の資料を比較した歴史的分析。
【事件後の影響】北樺太保障占領と日ソ基本条約はどう結びついたのか
1920年7月、日本が北樺太を保障占領
尼港事件の発生後、日本国内では強い反ソ感情が広がりました。軍人や居留民が殺害されたという知らせは大きな衝撃を与え、政府や軍部は事件の責任追及を求めるようになります。
日本政府は1920年7月3日、尼港事件の解決を保障する措置として北樺太(北サハリン)の占領を宣言しました。これが北樺太保障占領です。
保障占領とは、相手国との紛争や要求の解決を確保するため、一定地域を軍事的に占領する措置です。北樺太を正式に日本領土へ編入したことを意味するものではありません。
この占領は、尼港事件への対応という外交的な名目だけでなく、北樺太の石油・石炭などの資源や日本の対ロシア政策とも関係していました。
北樺太占領下で起きた日本人移住者の問題
北海道大学の竹野学による研究論文「保障占領下北樺太における日本人の活動(1920-1925)」は、占領期間中の日本人移住者の活動を分析しています。
同研究によると、保障占領が始まると、日本領土化への期待を抱いた商工業者などが北樺太へ移住しました。しかし、実際の事業環境は必ずしも良好ではありませんでした。
交通インフラの未整備、商機の限定、中国人商人の台頭などが重なり、日本人居留民は次第に撤退を始めました。
つまり、北樺太保障占領は単なる軍事的な報復措置にとどまらず、経済的な進出と地域社会の形成を伴う政策でもありました。しかし、当初の期待どおりの成果を上げることはできなかったのです。
1925年の日ソ基本条約で外交関係が正常化
北樺太保障占領を終わらせるためには、日本とソビエト連邦の間で外交交渉を成立させる必要がありました。
1925年1月20日、北京で日本とソビエト連邦は日ソ基本条約に調印しました。国立公文書館の「日本のあゆみ」によると、同条約によって両国の外交関係が樹立され、2月25日に批准されました。
尼港事件については、条約に関連する附属公文でソビエト側が日本政府に誠実な遺憾の意を表明しました。
外務省の『日本外交文書』大正14年の記録にも、尼港事件に関する陳謝文や条約交渉の経過が収録されています。
ただし、事件に対する日本側の損害賠償要求がすべて現金によって支払われたわけではありません。外交上の遺憾表明、北樺太における資源利権の交渉、保障占領の解除など、複数の問題が並行して処理されました。
その後、日本軍は1925年5月に北樺太からの撤兵を完了しました。1918年から続いたシベリア出兵と、その後に残された北樺太占領は、こうして終結へ向かいました。
【プロの結論】尼港事件を歴史から読み解く3つの視点
尼港事件を理解するためには、次の3点を分けて考える必要があります。
第一に、民間人を含む日本人の殺害という人道上の重大な被害です。軍事衝突の経緯にどのような複雑さがあったとしても、捕虜や一般住民が殺害された事実の重大性は変わりません。
第二に、戦闘再開に至るまでの双方の軍事行動です。日本軍の降伏後の反攻とパルチザン側の攻撃を区別して検討することで、事件の経緯を一面的に理解することを避けられます。
第三に、事件が外交政策に利用された側面です。日本政府は事件を北樺太保障占領の理由とし、シベリア出兵の継続や対ソ外交にも結びつけました。被害の実態と、その被害を政治的に利用した政策の評価は、分けて考える必要があります。
【よくある質問】尼港事件に関するFAQ
Q1:尼港事件はいつ、どこで起きた事件ですか?
A1:1920年(大正9年)2月から5月にかけて、ロシア極東のニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)で発生しました。日本軍守備隊とトリャピーツィン率いるパルチザンが衝突し、日本人居留民や捕虜らが殺害されました。
Q2:尼港事件の犠牲者は何人ですか?
A2:資料によって異なります。米国外交文書に記録された日本政府の初期推計は約656人(居留民350人、軍人306人)です。一方、ブリタニカ国際大百科事典は734人(軍人351人、居留民383人)、大学の研究資料は735人(軍人351人、民間人384人)としています。正確な確定人数については資料間に差があります。
Q3:ヤーコフ・トリャピーツィンは事件後どうなりましたか?
A3:トリャピーツィンは1920年7月、革命政府側によって捕らえられ、処刑されました。彼はアナーキスト系の指導者として知られ、ソビエト中央政府の正式な軍事組織と単純に同一視できない複雑な立場にありました。
Q4:尼港事件が北樺太占領につながったのはなぜですか?
A4:日本政府が、事件による損害や責任問題の解決を確保するためとして、1920年7月に北樺太の保障占領を宣言したためです。占領は1925年の日ソ基本条約締結後に解除され、同年5月に日本軍の撤兵が完了しました。
Q5:尼港事件について調べられる公的資料はありますか?
A5:あります。外務省外交史料館の『日本外交文書』、アジア歴史資料センターの尼港事件関係記録、国立公文書館デジタルアーカイブ、北海道立文書館の「尼港事件記録」などが代表的です。犠牲者数や戦闘経緯を調べる場合は、複数の資料を比較することが有効です。
まとめ:尼港事件の歴史的意味と2026年に知っておきたいこと
尼港事件は、1920年にロシア極東のニコラエフスク・ナ・アムーレで発生した、日本軍とパルチザンの武力衝突、日本人居留民や捕虜の殺害、そして市街地の焼失を伴う重大事件です。
その背景には、ロシア革命後の内戦、シベリア出兵、日本軍の駐留継続、現地の革命勢力との対立がありました。事件後、日本政府は北樺太の保障占領を実施し、日ソ基本条約の締結によって外交関係の正常化と撤兵を進めました。
犠牲者数については、約656人という初期推計から734~735人という後年の記述まで幅があります。数字だけを切り取るのではなく、軍人と民間人の区別、調査時期、史料の作成目的を確認することが大切です。
2026年現在、尼港事件は単なる過去の軍事衝突としてではなく、ロシア革命と国際干渉、民間人保護、捕虜の扱い、外交交渉、軍事占領の正当性が交差した歴史的事件として捉えることができます。
事件の全貌を理解するための判断基準は、特定の国や政治勢力の説明だけに依存せず、日本側の外交記録、現地の記録、外国政府の外交文書、歴史研究を照合することです。複数の史料を比較することで、尼港事件が日本とロシアの関係、そして20世紀初頭の東アジア外交に残した影響が、より立体的に見えてきます。
主な参考資料・研究
- 外務省外交史料館『日本外交文書』大正期・大正14年関係資料。
- アジア歴史資料センター「尼港事件/大正九年尼港及『オコーツク』事件ニ因ル損害救恤関係」。
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「Circumstances of the Massacre at Nicolaevsk」。
- 北海道立文書館「尼港事件記録」分類記号B0-165。
- 米国国務省『Foreign Relations of the United States, 1920, Volume III』1920年6月17日付外交電報。
- 『改訂新版 世界大百科事典』「尼港事件」。
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』「尼港事件」。
- 『山川 日本史小辞典 改訂新版』「尼港事件」。
- 竹野学「保障占領下北樺太における日本人の活動(1920-1925)」北海道大学大学院経済学研究科、2013年。
- Japan's Response to the Russian Revolution: Anarchism, Socialism, and Pan-Asianism in the early 1920s, University of California eScholarship。