大津事件とは何があったのか?津田三蔵の犯行動機と児島惟謙の司法判断を徹底解説

目次

大津事件とは、1891年(明治24年)5月11日、滋賀県大津で、来日中のロシア皇太子ニコライが警備にあたっていた巡査・津田三蔵にサーベルで斬りつけられ、負傷した事件です。後にロシア皇帝ニコライ2世となる人物が襲撃されたことで、日本はロシアとの外交関係を揺るがす重大な危機に直面しました。

しかし、この事件が日本史に残る理由は、皇太子への襲撃だけではありません。明治政府が外交上の配慮から津田の死刑を求めたのに対し、大審院長の児島惟謙は刑法の適用をめぐって異なる判断を示し、1891年5月27日、津田には無期徒刑が言い渡されました。この裁判は、政治や外交の圧力から司法が独立できるのかという問題を、近代日本に突きつけたのです。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】 - 事件の概要: 1891年5月11日、大津で巡査・津田三蔵がロシア皇太子ニコライをサーベルで襲撃した。 - 裁判の争点: 明治政府は刑法116条の適用による死刑を求めたが、児島惟謙ら司法側は通常の謀殺未遂罪を適用した。 - 判決と歴史的意義: 5月27日、津田に無期徒刑が言い渡された。事件は司法権の独立を考えるうえで重要な歴史的事例となった。

【大津事件とは】1891年に大津で起きたロシア皇太子襲撃事件の全貌

大津事件とは

大津事件の発生は1891年5月11日

大津事件は、明治24年5月11日、現在の滋賀県大津市にあたる地域で発生しました。別名「湖南事件」とも呼ばれています。

当時、日本を訪れていたのはロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチです。後にロシア帝国最後の皇帝となるニコライ2世で、事件当時は22歳でした。

ニコライは父であるロシア皇帝アレクサンドル3世の名代として、シベリア鉄道の起工式に関係する外遊を行っていました。

1891年4月27日に長崎へ寄港した後、日本各地を訪問。鹿児島や神戸、京都などを巡り、各地で盛大な歓迎を受けていました。

5月11日には琵琶湖周辺を遊覧し、その帰途に大津を通過します。

このとき、警備を担当していた滋賀県巡査の津田三蔵が、突然サーベルでニコライに斬りつけました。

滋賀県立公文書館が公開する現場略図によると、襲撃場所は当時の下小唐崎町、現在の大津市京町二丁目付近です。

ニコライは頭部を負傷しましたが、人力車の車夫らが迅速に対応し、津田はその場で取り押さえられました。

ニコライを救った2人の車夫

この事件で忘れてはならないのが、ニコライを乗せていた人力車の車夫たちの行動です。

外務省外交史料館の解説によると、襲撃を阻止するために活躍したのは、次の人物たちでした。

- 向畑治三郎:ニコライの人力車を引いていた車夫
- 北賀市市太郎:同行していたギリシャのゲオルギオス親王の車夫
- ゲオルギオス親王:ニコライとともに日本を訪れていた親族

彼らは津田がさらに斬りつけようとするのを阻止し、ニコライを守りました。

事件後、車夫2人にはロシア皇帝からそれぞれ1,000円の年金が贈られました。日本側からも勲章と年金が授与され、2人は「帯勲車夫」として知られるようになります。

外国の皇太子を守った一般市民の行動は、事件後の日露関係にも影響する象徴的な出来事となりました。

【津田三蔵の犯行動機】なぜ警備する立場の巡査が皇太子を襲ったのか

大津事件を理解するうえで、特に関心を集めるのが津田三蔵の犯行動機です。

国賓として訪日した皇太子を守るべき警察官が、なぜ自ら襲撃したのでしょうか。

その背景には、当時の日本社会に広がっていた対ロシア感情や、津田自身の軍歴、個人的な思い込みが関係していました。

1. ニコライの来日を軍事的な偵察と疑っていた

当時、日本ではロシアに対する警戒心が強く存在していました。

ロシアは軍事的に強大な国家であり、日本国内には将来の侵略を懸念する人々もいました。

そうした社会情勢のなかで、ニコライの訪日についても、単なる親善旅行ではなく、日本の地理や軍事状況を調べるための偵察ではないかという風説が広がっていました。

津田も、この噂を信じていたとされています。

1891年5月27日の判決に関する研究資料には、津田がニコライの来日を通常の遊覧旅行ではないと誤信し、不快感を抱いていた旨が記されています。

ただし、ロシアによる軍事偵察が実際に行われていたことを示す事実ではありません。あくまで当時の流言と津田自身の認識の問題です。

2. 西郷隆盛がロシアから帰国するという風説

もう一つ注目されるのが、西郷隆盛に関する噂です。

西南戦争で敗れた西郷隆盛は、1877年に城山で最期を迎えました。

ところが、1891年のニコライ来日前には、西郷が実際には死亡しておらず、ロシアへ逃れていたという風説が流れていました。

さらに、ニコライの来日は西郷を日本へ連れ戻すためではないかという、根拠のない話まで広がっていたのです。

津田は西南戦争に従軍し、政府軍の一員として戦った経歴を持っていました。軍功によって勲章も受けています。

そのため、西郷が生きて帰国すれば、自分たちの戦功や勲章の価値が失われるのではないかという不安を抱いていたとする研究があります。

この心理は、津田の犯行動機を考えるうえで重要な要素です。

3. 国家への忠誠心だけでは説明できない個人的な衝動

事件当時の津田の供述には、犯行時に突然逆上したことや、その瞬間の記憶がはっきりしないことを述べた記録があります。

また、法学研究者の鎌倉利行による論考「大津事件考」では、津田の軍歴、勲章への強い執着、西郷隆盛に関する風説、本人の性格などを検討しています。

同論考は、犯行を単純な国家への忠誠心だけで説明するのではなく、個人的な感情が重なった衝動的な行動として分析しています。

ここから見えてくるのは、津田の行動が当時の対ロシア感情と無関係ではなかった一方、社会に広がった噂を本人がどのように受け止めたかも重要だったということです。

津田三蔵の犯行動機は、対ロシアへの警戒心、西郷隆盛の生還説、軍功や勲章への執着、個人的な感情が複雑に絡み合ったものと捉えるのが適切です。

【明治政府の死刑要求と刑法116条】裁判を揺るがした法解釈の対立

大津事件が日本の法制史で特別な意味を持つのは、政府と司法の間で、適用する法律をめぐる重大な対立が生じたためです。

問題となったのが、当時の刑法116条でした。

刑法116条はなぜ争点になったのか

刑法116条は、天皇や皇后などの皇族に危害を加えた者、または加えようとした者を死刑に処する規定でした。

しかし、ニコライは日本の皇族ではありません。

そのため、外国の皇太子であるニコライへの襲撃に、この規定を適用できるのかという法的問題が生じました。

一方、事件前年には日本人によるロシア公使館への投石事件が発生していました。

これを背景に、ロシア公使シェーヴィッチは、外国の皇族に対する暴力も日本の皇族に対する犯罪と同様に処罰するよう求めていました。

外務大臣の青木周蔵は、ニコライを傷つけた者についても同様に処罰すると約束していました。

つまり、政府には外交上の約束を守る必要があり、ロシア側の期待に応えるためにも、津田に厳しい刑罰を科したい事情があったのです。

ただし、外交上の約束と国内刑法の条文は別の問題です。刑法116条そのものが外国皇族を対象にするよう改正されたわけではありませんでした。

明治政府が死刑を求めた理由

明治政府が恐れていたのは、事件をきっかけに日露関係が悪化することでした。

当時のロシアは日本にとって無視できない大国です。

外交問題が深刻化すれば、軍事的な緊張や国際的な信用の低下につながる可能性がありました。

そのため政府内では、刑法116条を適用して津田を死刑にするべきだという意見が強まりました。

実際、1891年5月28日付のロシア公使宛て処刑通知に関する外交文書には、日本政府が刑法116条の適用を当初から強く希望し、検事総長に指示して大審院で求刑させた経緯が記録されています。

この文書は、事件後の政府の対応を知るうえで重要な一次史料です。

司法側が問題にしたのは法律の適用範囲

これに対し、司法側が重視したのは、外交上の事情によって法律の適用範囲を広げてよいのかという問題でした。

仮に外国皇族への襲撃を理由に刑法116条を適用すれば、条文が明示していない対象に死刑を科すことになります。

これは、犯罪と刑罰は法律によって定められていなければならないという罪刑法定主義の考え方とも関係します。

つまり、争点は単純に死刑が重すぎるかどうかではありません。

外交的に重大な事件であっても、裁判所は法律の規定に従って判断しなければならないのか。

この問いが、大津事件の裁判を歴史的なものにしました。

【児島惟謙と無期徒刑判決】司法権の独立を守った判断の真相

大津事件を語るとき、欠かせない人物が大審院長の児島惟謙です。

児島惟謙は1837年生まれの司法官で、1891年当時、大審院長を務めていました。

大審院は、現在の最高裁判所に相当する近代日本の司法機関です。

児島は政府の死刑要求に対し、刑法116条ではなく通常の謀殺未遂罪を適用する立場を取りました。

児島惟謙が重視した司法の原則

児島が問題にしたのは、政府の希望によって法律の解釈や刑罰を変えてしまうことでした。

政府が外交上の利益を優先し、裁判所に死刑判決を求めたとしても、裁判所は法律に従って独立した判断を下す必要があります。

この考え方が、司法権の独立です。

司法権の独立とは、裁判所が政治権力や行政機関から不当な干渉を受けず、法と証拠に基づいて裁判を行う原則を指します。

大津事件では、政府が望む結論と、司法側が適切と考える法律の適用が一致しませんでした。

児島は担当裁判官に通常の謀殺未遂罪を適用するよう説得し、刑法に基づく判断を進めました。

1891年5月27日、津田三蔵に無期徒刑

そして1891年5月27日、大審院は津田三蔵に対して謀殺未遂罪を適用し、無期徒刑を言い渡しました。

政府が求めていた死刑ではなく、通常の刑法規定に基づく判決となったのです。

当時の判決用語は「無期徒刑」です。現在の制度に置き換えて説明する場合には、無期懲役に相当する刑罰として紹介されます。

この判決によって、明治政府の外交的な意向が、そのまま司法判断になることは避けられました。

なお、政府自身も5月28日付の外交文書で、刑法116条の適用を望んでいたものの、大審院がその適用は困難と判断し、独立した権限で判決を下したことをロシア側に説明しています。

児島惟謙は完全な英雄だったのか

大津事件は、長く児島惟謙が司法権の独立を守った成功例として語られてきました。

しかし、近年の司法政治史研究では、児島の行動をより多角的に評価する見方もあります。

例えば、琉球大学の萩原淳による2021年の研究では、児島が担当裁判官を説得し、自身の法律解釈に従わせた点や、検事総長とともに緊急勅令の可能性を法務大臣に進言した点などが指摘されています。

これは、児島の行動を単純な英雄物語として捉えるだけでは、事件の複雑な司法過程を十分に理解できないことを示しています。

司法権の独立を守るという目的と、司法組織内部で上級者が担当裁判官に働きかけることの適否は、別々に検討する必要があります。

それでも、政府の望む死刑判決をそのまま受け入れず、法律の適用をめぐって独自の判断を示したことは、大津事件の重要な歴史的意義です。

【大津事件の時系列と関係者】事件発生から判決までを整理

大津事件は、わずか16日間で判決に至った一方、その後の外交や政治、司法制度に長く影響を与えました。

まず、主要な出来事を整理します。

大津事件の重要年表

年月日 出来事 歴史的な意味
1891年4月27日 ニコライが長崎に寄港 皇太子の日本訪問が始まる
1891年5月11日 大津事件発生 津田三蔵がニコライを襲撃
1891年5月12日 明治天皇が京都へ向かう 外交危機の収拾を図る
1891年5月13日 明治天皇がニコライを見舞う 日本側が誠意を示す
1891年5月16日 関連報道に対する事前検閲などの措置 政府が国内の情報統制を強化
1891年5月19日 ニコライが予定を早めて離日 日本訪問の日程が変更される
1891年5月27日 大審院が津田に無期徒刑を言い渡す 刑法116条を適用しない判断が確定
1891年7月3日 アレクサンドル3世が日本政府の処置に満足する意向を伝える 日露間の緊張が収束へ向かう

事件に関係した人物と組織の関係

人物・組織 大津事件との関係 役割・位置づけ
ロシア皇太子ニコライ 被害者 後のロシア皇帝ニコライ2世
津田三蔵 加害者 ニコライをサーベルで襲撃した巡査
児島惟謙 大審院長 刑法116条ではなく謀殺未遂罪の適用を主張
向畑治三郎 車夫 ニコライを守るため行動
北賀市市太郎 車夫 ゲオルギオス親王の車夫として救助に協力
明治政府 政府・行政機関 外交問題への対応と死刑要求
ロシア皇帝アレクサンドル3世 ニコライの父 日本政府の対応を評価し、関係改善に寄与

このように、大津事件は津田とニコライだけの問題ではありませんでした。

日本政府、ロシア政府、司法機関、現場で救助にあたった車夫など、多くの関係者の判断と行動によって、その後の歴史が形づくられています。

【大津事件と日露関係・関連史料】外交危機はどう収束したのか

大津事件は、日露戦争以前の日本外交を考えるうえでも重要な出来事です。

当時の日本は、近代国家として国際社会での地位を確立しようとしていました。

そのなかで、訪日中のロシア皇太子が日本の警察官に襲われたことは、国家の信用を大きく損なう問題でした。

明治天皇による見舞いとロシア側の対応

事件発生後、日本政府は迅速な外交対応に動きました。

事件翌日の5月12日には明治天皇が京都へ向かい、翌13日にはニコライを見舞いました。

国立公文書館に残る「幸啓録」などの記録からは、事件直後の宮内省や政府関係者が、事態の収拾に奔走した様子を読み取れます。

また、ニコライ自身も日本側の対応に感謝する書簡を残しました。

その後、ロシア皇帝アレクサンドル3世も日本側の処置に満足する意向を伝えています。

外務省外交史料館の説明では、1891年7月3日にロシア皇帝が日本政府の対応を評価したことが記録されています。

結果として、大津事件を原因とする日露関係の決定的な悪化は回避されました。

事件後には報道統制も行われた

見落とされがちなのが、事件後の国内における言論統制です。

日本アジア歴史資料センターの解説によると、1891年5月16日には勅令によって新聞や雑誌の関連報道に対する事前検閲などの緊急措置が取られました。

政府は外交問題の拡大を避けるため、国内の報道や世論にも強く注意を払っていたのです。

この点から、大津事件は司法権の独立だけでなく、政府による情報統制と報道の自由という問題も浮かび上がらせています。

大津事件の関連史料はどこで確認できる?

大津事件を深く調べる場合、後世の解説書だけでなく、当時作成された公文書や捜査記録を確認することが重要です。

2026年現在、複数の公的機関が関連資料を紹介しています。



国立公文書館

「大津事件」関連の外交・宮内関係資料を紹介しています。特に「外賓接待録」7冊と「幸啓録」2冊は、皇太子の接遇や事件後の対応を知る手掛かりです。

主な資料:宮内省関係文書、事件後の電報、皇室往復書簡



滋賀県立公文書館

警察文書から事件当日の状況や津田の素行調査、現場の位置関係を確認できます。2022年度には警察本部から関連資料の一部が移管されています。

主な資料:現場略図、手続上申書、性行調査関係文書



滋賀県立琵琶湖文化館

事件に使用されたサーベル、ニコライの血をぬぐったハンカチ、ニコライが腰掛けた床几や座布団、津田の取り調べ調書などを所蔵しています。

主な資料:大津事件関係資料(滋賀県指定文化財)



外務省外交史料館

「露国皇太子滋賀県大津ニ於テ遭難一件」などの外交記録を確認できます。主要文書は外務省編『日本外交文書』第24巻にも収録されています。

主な資料:事件報告、処刑通知、日露間の外交文書



特に興味深いのは、滋賀県立琵琶湖文化館が所蔵する資料群です。

同館の解説によると、資料の約8割は事件後の1898年(明治31年)以降に作成されたものです。

そこには、負傷したニコライを介抱した呉服屋の永井家をめぐり、日本政府とロシアの間で行われた水面下の交渉に関する記録も含まれています。

事件当日の襲撃だけでなく、その後も外交上の調整が続いていたことを示す興味深い史料群です。

【大津事件とは何か】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:大津事件は何年に起きた事件ですか?

A1:1891年(明治24年)5月11日に発生しました。滋賀県大津で、警備中の巡査・津田三蔵がロシア皇太子ニコライをサーベルで襲撃した事件です。

Q2:津田三蔵はなぜニコライを襲撃したのですか?

A2:ニコライの来日を軍事偵察と疑う風説や、西郷隆盛がロシアから帰国するという噂、西南戦争で得た勲章への執着などが犯行の背景として研究されています。個人的な感情や衝動も関係していたと考えられています。

Q3:児島惟謙はなぜ津田三蔵を死刑にしなかったのですか?

A3:刑法116条は日本の皇族への危害を対象とする規定であり、外国の皇太子であるニコライに適用できるかが問題になったためです。児島は通常の謀殺未遂罪を適用する立場を取り、法律に基づく判断を重視しました。

Q4:津田三蔵の判決はどうなりましたか?

A4:1891年5月27日、大審院は津田に無期徒刑を言い渡しました。これは当時の刑法に基づく判断で、政府が求めた死刑とは異なる結論でした。

Q5:大津事件によって日露戦争は起きたのですか?

A5:いいえ。大津事件が原因で日露戦争が起きたわけではありません。事件後、明治天皇の見舞いやロシア皇帝の対応などによって外交危機は収束しました。日露戦争はその後の別の国際情勢や対立を背景に、1904年に始まりました。

まとめ:大津事件が現代の日本に問いかける司法権の独立

大津事件は、1891年5月11日に滋賀県大津で発生した、ロシア皇太子ニコライ襲撃事件です。犯人の津田三蔵は、対ロシア感情や当時の風説、個人的な事情などが絡み合った背景のもとで犯行に及びました。

事件後、明治政府は外交関係の悪化を防ぐため、刑法116条の適用による死刑を求めました。しかし、大審院長の児島惟謙は通常の謀殺未遂罪を適用する立場を取り、1891年5月27日、津田には無期徒刑が言い渡されました。

この判断が歴史に残る理由は、単に政府の要求と異なる判決が出たからではありません。外交上の利益や政治的な圧力が存在する状況でも、裁判所が法律に基づいて判断することの意味を示したからです。

一方、児島惟謙の行動には、司法組織内部での働きかけなど、後世の研究で再検討されている側面もあります。大津事件を正確に理解するには、児島を英雄として称賛するだけでなく、当時の法制度や政治構造、政府と司法の関係を併せて見る必要があります。

【プロの結論】大津事件から学ぶべき最大の教訓は、国家的な危機に直面したときこそ、法律の適用を外交や政治の都合で左右してはならないということです。

2026年の現在も、国際関係と国内法の整合性、行政権と司法権の関係は重要な課題です。大津事件は、司法権の独立がなぜ必要なのかを考えるための、近代日本史における代表的な事例であり続けています。