徳川家康の子孫は現在も続く?宗家19代・家広と御三家の系譜を2026年最新解説
2026年10月現在、徳川家康の子孫は現代にも受け継がれている。徳川宗家の第19代当主を務めるのは、翻訳家・政治経済評論家としても活動する徳川家広氏だ。2023年1月に父・徳川恒孝氏から家督を継承し、現在は公益財団法人德川記念財団の理事長も務めている。
ただし、徳川家康の子孫を調べる際には、徳川宗家と御三家、徳川慶喜家を区別する必要がある。家康には11男5女がおり、その子どもたちから尾張・紀伊・水戸の徳川家をはじめ、数多くの家系が広がった。将軍家も必ずしも実子だけで継承されたわけではなく、養子によって血統と家名が受け継がれてきた歴史がある。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:徳川家康の子孫は2026年現在も続いており、徳川宗家第19代当主は徳川家広氏。
- 要点2:家康は11男5女の父で、九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房が御三家の祖となった。
- 要点3:尾張・紀伊・水戸徳川家にも現代の継承者がおり、将軍家とは別の系譜が続いている。
【2026年現在】徳川家康の子孫は続いている?徳川宗家19代当主・徳川家広の現在

徳川家康の子孫が現在も存在することを示す代表的な人物が、徳川宗家第19代当主の徳川家広氏だ。
徳川宗家は、江戸幕府の初代将軍・徳川家康から第15代将軍・徳川慶喜まで続いた将軍家を起源とする家系である。明治維新後も家名は存続し、16代・徳川家達、17代・徳川家正、18代・徳川恒孝へと受け継がれた。
公益財団法人德川記念財団の公式説明によると、18代当主の恒孝氏から19代当主の家広氏への継承は2023年1月に行われた。現在の当主が家広氏であることも、財団の公式情報で確認できる。
徳川家広のプロフィールと経歴

徳川家広氏は1965年、東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部を卒業後、米国ミシガン大学大学院で経済学修士号を取得した。その後、国連食糧農業機関(FAO)のローマ本部やベトナム支部で国際経済・開発政策に携わり、さらに米国コロンビア大学大学院で政治学修士号を取得している。
2000年に日本へ帰国してからは、翻訳家や政治経済評論家として活動。経済思想、国際政治、歴史、制度研究などを専門分野とし、著作や翻訳書も発表している。
2021年6月には公益財団法人德川記念財団の理事長に就任。2023年1月に徳川宗家19代当主を正式に継承した。歴史的な家名を引き継ぐだけでなく、歴史資料や文化財の保護にも関わっている。
2023年の継承式で何が起きたのか

2023年1月29日、東京都港区の増上寺で徳川宗家の家督継承を披露する「継宗の儀」が行われた。家督交代そのものは同年1月1日付で、父の恒孝氏から家広氏へと引き継がれた。
日刊スポーツの報道によると、徳川宗家の当主交代は約60年ぶり。生前に行われる継承の祝儀としては、江戸時代の第11代将軍・家斉から第12代将軍・家慶への交代以来、185年ぶりだった。
式典には親族や徳川家ゆかりの自治体関係者など400人以上が出席した。江戸時代の将軍家が、現代では民間の家として継承されていることを象徴する出来事だった。
徳川家広に子どもはいる?次の当主は決まっているのか
家広氏の後継者については、2023年1月の継承式に関する報道で、妻の英美氏との間に子どもはいないと伝えられた。家広氏自身も、その後の家の継承について今後考えていく趣旨の発言をしている。
一方、2026年10月現在、財団の公式概要や家広氏の公式プロフィールには、次代当主の指名に関する発表は掲載されていない。したがって、後継者が確定していると断定することはできない。
もっとも、徳川宗家には過去に養子によって家督を継承した歴史がある。家広氏の実子の有無だけで、徳川宗家の将来が決まるわけではない。
【参考:德川記念財団公式サイト、徳川家広公式プロフィール、日刊スポーツの2023年継承式報道】
【家系図を解説】徳川家康の11男5女と御三家が誕生した歴史
徳川家康の子孫を理解するうえで欠かせないのが、家康の子どもたちの存在だ。
岡崎市観光協会が公開する「家康公の子どもたち」では、家康の子女は11男5女の合計16人と紹介されている。子どもたちの母親は複数おり、婚姻や養子縁組を通じて他の大名家とも結びついていった。
家康の11人の男子
- 長男:松平信康(まつだいらのぶやす)
- 次男:結城秀康(ゆうきひでやす)
- 三男:徳川秀忠(とくがわひでただ)
- 四男:松平忠吉(まつだいらただよし)
- 五男:武田信吉(たけだのぶよし)
- 六男:松平忠輝(まつだいらただてる)
- 七男:松平松千代(まつだいらまつちよ)
- 八男:松平仙千代(まつだいらせんちよ)
- 九男:徳川義直(とくがわよしなお)
- 十男:徳川頼宣(とくがわよりのぶ)
- 十一男:徳川頼房(とくがわよりふさ)
家康の5人の女子
- 長女:亀姫(かめひめ)
- 次女:督姫(とくひめ)
- 三女:振姫(ふりひめ)
- 四女:松姫(まつひめ)
- 五女:市姫(いちひめ)
子どもたち全員が同じように家系を残したわけではない。早くに亡くなった子どももいれば、他家へ養子に入った男子、婚姻によって別の大名家と結びついた女子もいた。
なかでも重要なのは、三男の秀忠と九男の義直、十男の頼宣、十一男の頼房である。秀忠は家康の後を継いで江戸幕府第2代将軍となり、残る3人は徳川御三家の始祖となった。
徳川御三家を生んだ3人の息子
家康は晩年に生まれた3人の息子に、それぞれ重要な領地を与えた。これが後の尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家につながる。
江戸東京博物館の資料や徳川美術館の解説でも、義直・頼宣・頼房が御三家の祖であることが確認できる。
三家は単なる大名家ではなく、将軍家に後継者がいなくなった場合に、将軍候補を出す役割も担った。徳川家の長期的な存続を支えるために設けられた、重要な親族ネットワークだった。
【徳川将軍家の歴代系譜】15代将軍はすべて家康の直系だったのか
徳川将軍家は家康から慶喜まで15代続いた。しかし、15人全員が家康から父子関係だけでつながる直系の子孫だったわけではない。
江戸東京博物館の展示解説によれば、家康からの直系は第4代将軍・家綱までで、将軍家の血筋は第7代将軍・家継の代で途絶えた。その後は御三家や御三卿から養子を迎え、家名と将軍職を継承している。
徳川将軍家15代の一覧
歴代将軍を就任順に並べると、次のようになる。
初代・家康 → 2代・秀忠 → 3代・家光 → 4代・家綱 → 5代・綱吉 → 6代・家宣 → 7代・家継 → 8代・吉宗 → 9代・家重 → 10代・家治 → 11代・家斉 → 12代・家慶 → 13代・家定 → 14代・家茂 → 15代・慶喜
これは将軍職の継承順であり、すべてが実の親子関係を示すものではない。
血統が変わった重要な継承
第7代将軍・家継が幼くして亡くなると、将軍家の直系継承が難しくなった。そこで紀伊徳川家から徳川吉宗が第8代将軍として迎えられた。
その後も、一橋家から第11代将軍・家斉、紀伊徳川家から第14代将軍・家茂、水戸徳川家出身で一橋家に入った第15代将軍・慶喜など、親族の別系統から将軍が選ばれている。
この仕組みは、徳川家が単一の父系だけに依存せず、親族の複数の家を通じて家名を守ってきたことを示している。
明治維新後も宗家は続いた
1867年の大政奉還によって将軍職は終わったが、徳川宗家そのものが消滅したわけではない。
15代慶喜の後には、御三卿の田安徳川家から徳川家達が迎えられ、16代当主となった。さらに17代家正、18代恒孝、19代家広へと継承されている。
この流れを見ると、徳川宗家の歴史は、単純な血縁の連続ではなく、養子縁組や親族間の家督継承によって維持されてきたことが分かる。
【徳川御三家の子孫は現在どうなっている?】尾張・紀伊・水戸の現状
徳川家康の子孫は宗家だけに存在するわけではない。家康の九男、十男、十一男から始まった御三家も、それぞれ独自の歴史を持って現代へつながっている。
2026年に確認できる各家の当主や活動を整理すると、次のようになる。
| 家筋 | 家康との関係・始祖 | 現在確認できる当主 | 主な活動・特徴 |
|---|---|---|---|
| 徳川宗家 | 将軍家・家康の後継家系 | 第19代・徳川家広 | 德川記念財団の運営、歴史資料や文化財の保存 |
| 尾張徳川家 | 九男・徳川義直 | 第22代・徳川義崇 | 徳川美術館の館長として大名文化を継承 |
| 紀伊徳川家 | 十男・徳川頼宣 | 第19代・徳川宜子 | 建築家として活動し、紀州徳川家の歴史を継承 |
| 水戸徳川家 | 十一男・徳川頼房 | 第15代・徳川斉正 | 徳川ミュージアムなどを通じた文化財・歴史文化の継承 |
尾張徳川家:徳川美術館を通じて大名文化を守る
尾張徳川家の始祖は、家康の九男・徳川義直である。御三家の筆頭とされ、江戸時代には格式の高い大名家として知られた。
現在の尾張徳川家を代表する人物が、第22代当主として紹介される徳川義崇氏だ。徳川美術館の館長を務め、尾張徳川家に伝わる文化財の保存と公開に携わっている。
徳川美術館は1935年に開館した。公式資料によれば、1万件を超える所蔵品を持ち、その中には国宝9件、重要文化財60件、重要美術品50件が含まれる。
家康が残した遺品や、江戸時代を通じて尾張徳川家に伝わった大名道具を保存している点も特徴だ。家系の継承だけでなく、物的な歴史遺産を守る役割が現在も続いている。
紀伊徳川家:吉宗と家茂を輩出した家系
紀伊徳川家は家康の十男・徳川頼宣を始祖とする。御三家の中でも将軍を輩出したことで知られ、特に第8代将軍・徳川吉宗と第14代将軍・徳川家茂が紀伊徳川家の系譜に連なる。
2024年5月発行の公益社団法人日本看護家政紹介事業協会の広報誌では、建築家の徳川宜子氏が紀州徳川家第19代当主として紹介されている。建築設計の分野で活動する人物であり、現代の紀州徳川家を語る際に重要な存在だ。
ただし、旧大名家の当主という呼称は、現在の公的な行政上の役職ではない。家系上の継承と、法律上の地位を混同しないことが大切だ。今後の継承についても、一般に確認できる情報は限られている。
水戸徳川家:徳川斉昭から慶喜へつながる系譜
水戸徳川家は家康の十一男・徳川頼房を始祖とする。第2代藩主・徳川光圀は『大日本史』の編さんで知られ、第9代藩主・徳川斉昭は藩校・弘道館の設立などを通じて水戸の学問文化を発展させた。
斉昭の七男が、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜である。つまり、慶喜は生まれながらにして将軍家の当主だったわけではなく、水戸徳川家に生まれた後、一橋徳川家に養子として入り、将軍職を継いだ人物だ。
水戸徳川家の第15代当主は徳川斉正氏。公益財団法人徳川ミュージアムの理事長などを務め、歴史資料や伝統文化の継承に携わっている。
2026年10月23日には、新潟県長岡市で越後長岡藩・牧野家の第17代当主とともに対談イベントに参加したことが報道された。2026年の活動からも、水戸徳川家が歴史文化を現代に伝える役割を担っていることが分かる。
水戸徳川家墓所も重要な継承資産の一つだ。歴代当主や一族が眠る墓所は国指定史跡であり、独自の祭祀や歴史的景観が現在まで守られている。
【徳川慶喜の子孫は現在もいる?】徳川宗家とは別の慶喜家の歴史
徳川慶喜の子孫を調べる際に注意したいのが、徳川宗家と徳川慶喜家は別の家系だという点である。
慶喜は第15代将軍として大政奉還を行った後、徳川宗家の家督を田安徳川家出身の徳川家達に譲った。その後、1902年に公爵を授けられたことを機に、宗家とは別に徳川慶喜家を創設した。
したがって、徳川慶喜家は徳川宗家の16代以降の当主を指すものではない。慶喜本人を初代とする独立した家系として理解する必要がある。
徳川慶喜家の5代目当主は山岸美喜
2026年現在、徳川慶喜家をめぐる大きな話題が、5代目当主・山岸美喜氏による「家じまい」である。
山岸氏は徳川慶喜の玄孫にあたる。2025年10月に第5代当主となり、慶喜家の歴史や先祖の祭祀、墓所の管理などに向き合ってきた。
2025年12月31日の共同通信報道によれば、山岸氏は徳川慶喜の墓を含む墓所の管理負担を踏まえ、祭祀承継権を上野東照宮に移す方向で調整していた。墓所は約990平方メートルあり、植栽の手入れや塀の修繕など、維持管理に相当な費用がかかっていたという。
さらに2026年8月の婦人公論のインタビュー記事では、山岸氏自身が徳川慶喜家の「家じまい」に取り組む経緯を紹介している。歴史的な家名や文化財を次の世代へどう引き継ぐかという、現代の旧家が直面する課題が浮き彫りになった。
慶喜家の終結は徳川家康の血筋の消滅を意味しない
ここで誤解してはいけないのが、徳川慶喜家の家じまいと、徳川慶喜の血縁者がいなくなることは同じではないという点だ。
慶喜は10男11女をもうけたとされ、その子どもたちからも複数の家系が広がった。慶喜家という独立した家の家名や祭祀の継承に区切りをつけることと、慶喜の子孫全体の存在は分けて考える必要がある。
山岸氏の取り組みは、徳川家康から続く血縁の歴史が終わるという話ではなく、明治時代に成立した一つの家の管理・継承の形が変わろうとしている出来事だ。
【直系子孫と分家の違い】徳川家康の血縁を正しく理解するポイント
徳川家康の子孫について調べると、「直系」「宗家」「分家」「御三家」「養子」という言葉が頻繁に登場する。これらは似ているようで意味が異なる。
直系子孫とは何か
直系子孫とは、親から子、子から孫へと直接つながる血縁関係を指す。家康から秀忠、秀忠から家光へと続く父子関係は、その代表例だ。
ただし、直系という言葉には父方・母方の両方のつながりがある。女性を通じて受け継がれた血縁も、家系全体を考えるうえでは重要になる。
分家とは何か
分家は、本家から分かれて独立した家を指す。共通の祖先を持っていても、宗家とは別の家督や家名を持つことがある。
尾張・紀伊・水戸徳川家は、家康の息子たちを始祖とする別々の家系であり、宗家とは異なる歴史を歩んできた。
一方、徳川宗家の歴史に登場する御三卿の田安・一橋・清水徳川家も、将軍家の後継者を支える重要な親族の家だった。こうした複数の家があったからこそ、将軍家の直系男子が途絶えた後も継承が可能になった。
養子による継承は血縁と家名を分ける
養子は、血縁関係のない人物や別の親族の子どもを家に迎え、家督を継がせる仕組みだ。江戸時代の徳川家では、血縁のある親族から養子を迎えることも多かった。
例えば、第8代将軍・吉宗は紀伊徳川家から、第11代将軍・家斉は一橋徳川家から、第14代将軍・家茂は紀伊徳川家から、第15代将軍・慶喜は一橋徳川家から将軍職を継いだ。
こうした継承では、当主の交代と血縁関係の変化が必ずしも一致しない。徳川宗家の19代という数字も、家康から父子関係だけで19世代続いたことを意味するものではない。
また、徳川という名字を持っていることだけで、家康との直系血縁を証明できるわけでもない。正確な関係を知るには、誰を祖先とする家系なのか、どのような養子縁組があったのかを確認する必要がある。
【徳川家康の子孫】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:徳川家康の子孫は2026年現在も生きている?
A1:はい。徳川宗家19代当主の徳川家広氏をはじめ、尾張・紀伊・水戸徳川家など、複数の家系が現在も継承されています。
Q2:徳川家康の子どもは何人いた?
A2:岡崎市観光協会の資料では11男5女の合計16人です。九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房が御三家の始祖となりました。
Q3:徳川宗家19代当主・徳川家広に後継者はいる?
A3:2023年の継承式当時の報道では子どもはいないと伝えられました。2026年10月現在、次代当主に関する公式発表は確認できません。
Q4:徳川慶喜の子孫は現在もいる?
A4:はい。徳川慶喜の玄孫である山岸美喜氏が、2026年現在、徳川慶喜家の第5代当主として紹介されています。ただし、慶喜家という独立した家は家じまいに取り組んでいます。
Q5:尾張・紀伊・水戸徳川家は現在も続いている?
A5:それぞれ現代の当主や関係者による文化継承活動が確認できます。尾張徳川家は徳川美術館、紀伊徳川家は徳川宜子氏、水戸徳川家は徳川斉正氏などが代表的な存在です。
Q6:徳川家康の直系子孫と徳川宗家の当主は同じ意味?
A6:同じではありません。直系子孫は直接の血縁関係を表し、宗家当主は家督を継いだ人物を表します。養子による継承もあるため、両者を区別する必要があります。
まとめ:【プロの結論】徳川家康の子孫は血縁と文化の両面で続いている
徳川家康の子孫は、2026年10月現在も複数の家系を通じて受け継がれている。徳川宗家では第19代当主・徳川家広氏が家督を継ぎ、公益財団法人德川記念財団を通じて歴史資料や文化財の保存に取り組んでいる。
一方、家康の九男・義直から尾張徳川家、十男・頼宣から紀伊徳川家、十一男・頼房から水戸徳川家が広がり、それぞれ異なる形で歴史や文化を現代へ伝えている。
徳川慶喜家の家じまいという変化もあるが、それは徳川家康の子孫全体が途絶えることを意味しない。一つの家の継承と、広い意味での血縁の継続は別の問題である。
徳川家康の子孫を調べる際に押さえておきたい判断基準は、次の3点だ。
- 家康から続く血縁関係を知りたいなら、直系・傍系・母方の系譜を確認する。
- 現在の徳川家の当主を知りたいなら、宗家と御三家、慶喜家を区別する。
- 歴史的な継承の実態を知りたいなら、実子による継承だけでなく養子縁組や文化財の継承にも注目する。
江戸幕府が終わってから150年以上が経過した現在も、徳川家の歴史は人から人へ、資料から資料へと受け継がれている。将軍という政治的な地位を失った後も、家名と文化を守り続ける人々の存在こそ、徳川家康の子孫が現代に残している最大の歴史的遺産といえる。