帝銀事件とは何だったのか?12人毒殺の経緯と平沢貞通の冤罪疑惑、再審の現在

目次

帝銀事件とは、1948年(昭和23年)1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で発生した集団毒殺強盗事件です。防疫関係者を装った男が銀行員ら16人に毒物を飲ませ、12人を死亡させたうえ、現金と小切手を奪って逃走しました。犯人として逮捕されたのは、日本画家の平沢貞通でした。1955年に死刑判決が確定しましたが、平沢は一貫して無実を主張し、1987年に95歳で獄中死するまで刑が執行されることはありませんでした。

事件から78年が経過した2026年現在も、帝銀事件には解明されていない問題が残っています。犯行に使われた毒物の正体、平沢の自白の信用性、捜査初期に浮上した旧日本陸軍関係者や731部隊との接点、そしてGHQとの関係です。2025年には第20次再審請求も手続上終了しましたが、証拠の実体について裁判所が判断したわけではありません。事件の発生から最新の再審問題まで、確定した事実と残された疑問を整理します。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

- 事件の概要: 1948年1月26日、帝国銀行椎名町支店で16人が毒物を飲まされ、12人が死亡した。
- 犯人とされた人物: 日本画家・平沢貞通が逮捕され、1955年5月7日に死刑が確定したが、本人は無実を訴え続けた。
- 冤罪疑惑の焦点: 自白の信用性、名刺をめぐる捜査、毒物鑑定、旧陸軍関係者への捜査方針の転換が問題となっている。
- 2026年現在: 第20次再審請求は2025年に請求人の死亡によって終了。新証拠の実体判断には至っていない。

【事件の全体像】帝銀事件とは?1948年に起きた12人毒殺強盗事件

帝銀事件とは

帝銀事件は、戦後間もない日本で発生した、毒物を使った強盗殺人事件です。

事件現場となったのは、東京都豊島区長崎町(現在の豊島区長崎周辺)にあった帝国銀行椎名町支店でした。

当時は終戦から約2年半しか経過しておらず、社会全体が混乱から立ち直ろうとしていた時期です。衛生環境も十分に整っておらず、感染症への警戒が人々の生活に深く関わっていました。

犯人は、こうした社会状況や公的機関への信用を利用したと考えられています。

事件の基本情報

帝銀事件とは
項目 内容
事件名 帝銀事件(帝国銀行事件)
発生日 1948年1月26日
発生場所 東京都豊島区・帝国銀行椎名町支店
犯行形態 毒物を用いた強盗殺人
被害者 16人が毒物を服用
死亡者 12人
生存者 4人
奪われたもの 現金約16万円、小切手1枚
逮捕された人物 平沢貞通
死刑確定 1955年5月7日
平沢の死亡 1987年5月10日

事件の重大さは、12人もの命が奪われたことだけではありません。

犯人が銀行員たちを暴力で制圧したのではなく、行政機関の関係者を装い、相手に自ら毒物を飲ませたという点にもあります。

この異常な犯行の手際が、事件直後から捜査関係者の関心を集めました。

帝国銀行椎名町支店で何が起きたのか

帝銀事件とは

1948年1月26日午後3時過ぎ、銀行の閉店後に一人の男が現れました。

男は東京都の衛生関係者や厚生省の関係者であるかのように振る舞い、近隣で集団赤痢が発生したと説明します。

さらに、進駐軍による消毒が予定されており、その前に予防薬を飲む必要があると銀行員たちに伝えました。

当時の人々にとって、行政機関や進駐軍の関係者を名乗る人物の指示には一定の説得力がありました。

銀行員たちは説明を信じ、男の指示に従うことになります。

その結果、16人が毒物入りの液体を飲まされ、12人が死亡しました。生き残った4人も深刻な中毒症状に陥りました。

男は現場が混乱した隙に、現金と小切手を奪って逃走しました。

この事件は翌日から新聞各紙で大きく報道され、日本社会に強い衝撃を与えました。

【犯行の経緯】巧妙な偽装と青酸化合物をめぐる謎

帝銀事件の犯行手口で特徴的なのは、犯人が医療・防疫関係者のように振る舞ったことです。

単に毒物を使用したというだけではなく、相手が疑問を持たずに指示に従うよう、権威や感染症への恐怖を利用していました。

犯人が利用した防疫関係者という立場

犯人は銀行の責任者に名刺を示し、自分が行政機関に関係する人物であることを印象づけました。

そして、近隣の感染症発生や進駐軍による消毒という説明を組み合わせ、銀行員たちを信用させました。

当時の警視総監が1948年3月26日の参議院治安及び地方制度委員会で説明した内容にも、犯人が進駐軍の命令による防疫を装い、青酸性の液体を飲ませた経緯が記録されています。

この国会会議録は、事件発生から約2か月後の捜査状況を知るうえで重要な一次資料です。

犯行に使用された青酸化合物とは

事件で使われた毒物は青酸化合物とされています。

ただし、具体的にどの種類の化合物だったのかは、長年にわたり議論されてきました。

確定判決は、検察側の主張を認め、犯行に使われた毒物を青酸カリと認定しています。

一方、後年の再審請求では、この毒物認定そのものが争点になりました。

特に問題になったのが、被害者の血液や胃内容物から検出された青酸濃度と、通常の青酸カリによる中毒との整合性です。

第20次再審請求では、弁護団が専門家による鑑定を新証拠として提出し、確定判決の毒物認定に疑問を提示しました。

2025年に明治大学平和教育登戸研究所資料館が公表した講演記録でも、弁護団の一瀬敬一郎弁護士が毒物問題について説明しています。

弁護団側は、アミグダリンなどの青酸配糖体が使用された可能性にも言及しています。

ただし、これは弁護側の鑑定・分析に基づく見解であり、実際に使用された毒物が確定したわけではありません。

帝銀事件の前にも類似事件が発生していた

帝銀事件を考えるうえで見逃せないのが、直前までに発生していた2件の類似事件です。

発生時期 発生場所 特徴
1947年10月14日 安田銀行荏原支店 防疫関係者を装った男が行員に薬液を飲ませようとした
1948年1月19日 三菱銀行中井支店 同様の手口で銀行員に接近したが、服用前に阻止された
1948年1月26日 帝国銀行椎名町支店 16人が毒物を飲まされ、12人が死亡

最初の安田銀行荏原支店の事件では、犯人が厚生技官・医学博士の松井蔚(まつい・しげる)の名刺を使用していました。

松井蔚は実在する医師であり、名刺も本人が実際に使用していた真正のものでした。

つまり、犯人は架空の身分証明書を作ったのではなく、実在する人物の名刺を利用していたのです。

この事実が、その後の捜査を大きく左右しました。

【犯人の正体を追った捜査】平沢貞通の逮捕と名刺の謎

帝銀事件の捜査は、当初から簡単ではありませんでした。

警視庁は犯人の言動、服装、毒物の扱い方、類似事件との共通点などを調べました。

とりわけ注目されたのが、犯人の毒物に関する知識です。

なぜ旧日本陸軍関係者が捜査対象になったのか

犯人は、一般的な強盗犯とは異なる落ち着いた態度で銀行員たちに接し、医療・防疫に関する知識を持っているように振る舞っていました。

そのため、警察は旧日本陸軍の毒物研究や秘密研究に関わった人物にも捜査の範囲を広げました。

特に関心を集めたのが、陸軍登戸研究所や旧731部隊などの関係者です。

明治大学平和教育登戸研究所資料館が公開した『甲斐捜査手記』の研究によると、当時の捜査は大きく旧軍関係者を調べる班と、松井蔚の名刺の配布先を調べる班に分かれていました。

ところが、捜査の中心が旧軍関係者に向けられていた時期に、突然、日本画家の平沢貞通が逮捕されます。

帝銀事件の名刺の謎と平沢貞通

平沢貞通は1892年生まれの日本画家です。

横山大観に師事し、帝展無鑑査となった実績を持つ画家で、事件当時は北海道を拠点に活動していました。

彼が捜査線上に浮上した理由の一つが、松井蔚の名刺でした。

平沢は1947年8月、青函連絡船内で松井蔚と名刺を交換していたことが確認されています。

その後、名刺を入れた財布を電車内で盗まれたとして、警察に盗難届を出していました。

捜査では、松井の名刺の交換先を一つずつ調べており、その過程で平沢の名前が浮上します。

ここで重要なのは、松井の名刺が帝銀事件の犯行現場から発見されたと断定できるわけではないことです。

捜査の中心となったのは、帝銀事件以前の類似未遂事件で使用された名刺の流通経路でした。

明治大学の研究資料によると、平沢は名刺交換先のうち、名刺を所持していなかった人物の一人でした。

その事情と人相などを手掛かりに、名刺捜査を担当していた刑事が平沢犯人説を強めていきました。

1948年8月21日、平沢貞通を逮捕

平沢は1948年8月21日、北海道小樽市で逮捕されました。

しかし、逮捕当初から警察内部で全員の見解が一致していたわけではありません。

明治大学平和教育登戸研究所資料館が分析した『甲斐捜査手記』には、逮捕直後の段階で関係者の面通しによって犯人と断定できなかったことや、傍証を固める必要があったことが記されています。

捜査の主流だった旧軍関係者の捜査班にとっても、平沢の逮捕は予想外の展開だったとされています。

こうした経緯は、なぜ警察が旧軍関係者を中心とする捜査から平沢へと重点を移したのかという疑問につながっています。

【平沢貞通の死刑判決】自白・物証・冤罪疑惑を検証

帝銀事件の最大の争点は、逮捕された平沢貞通が本当に犯人だったのかという点です。

平沢は捜査段階で犯行を認める供述をしましたが、裁判ではその供述を撤回し、無実を主張しました。

平沢貞通の自白はなぜ問題になったのか

平沢は逮捕当初、帝銀事件への関与を否定していました。

しかし、長期間にわたる取り調べの後、1948年9月23日から犯行を認める供述を始めます。

第20次再審請求弁護団の主任弁護人だった一瀬敬一郎弁護士の2025年の講演記録によれば、この間に31通の自白調書が作成されました。

一方、平沢は同年12月10日の初公判で犯行を否認します。

本人は取り調べでの自白について、自由な意思によるものではなかったと主張しました。

さらに、再審弁護団は、平沢の精神状態や過去の病歴、供述内容の変化に注目しました。

特に心理学者・浜田寿美男氏による鑑定では、平沢が当初は犯行を認めながらも具体的な状況を十分に説明できず、次第に自分自身を犯人だと思い込んでいった可能性が検討されています。

これは弁護側が提出した心理学的な分析であり、確定判決を覆す司法判断が出たという意味ではありません。

平沢貞通の死刑判決と裁判の経過

平沢の裁判は、次のように進みました。

年月日 出来事 内容
1948年8月21日 平沢逮捕 北海道小樽市で逮捕
1948年9月23日 自白開始 捜査段階で犯行を認める供述
1948年12月10日 初公判 自白を否定し、無実を主張
1950年7月24日 東京地裁判決 死刑判決
1951年9月29日 東京高裁判決 控訴棄却
1955年4月6日 最高裁判決 上告棄却
1955年5月7日 死刑確定 異議申立て棄却後に確定
1987年5月10日 平沢死亡 95歳で八王子医療刑務所にて死亡

平沢は死刑が確定してからも無実を訴え続けました。

しかし、再審請求は認められず、1987年5月10日、95歳で死亡しました。

死刑は執行されていません。

冤罪疑惑の核心は物的証拠の弱さにある

帝銀事件で平沢の有罪を支えたのは、自白だけではありません。

裁判では、生存者の証言、人物識別、名刺をめぐる事情、小切手の筆跡、アリバイなども検討されました。

したがって、証拠がまったく存在しなかったという説明は正確ではありません。

ただし、再審を求める側が問題にしてきたのは、これらの証拠が犯行との直接的な結び付きをどこまで証明できるのかという点です。

特に重要なのが次の4点です。

- 自白の任意性: 長期の取り調べによって形成された供述が、本当に本人の自由な意思に基づいていたのか。
- 目撃証言の信用性: 時間の経過や当時の混乱が、人物識別や記憶に影響していなかったか。
- 毒物の入手経路: 平沢が犯行に使われたと認定された毒物をどのように入手したのか。
- 名刺と犯人の同一性: 名刺の流通経路が、平沢の犯行を直接証明するものだったのか。

この4点が、長年にわたる冤罪疑惑の中心にあります。

【731部隊関与説とGHQ】旧日本陸軍の毒物研究との関係は?

帝銀事件をめぐる議論では、731部隊や登戸研究所、GHQの存在が頻繁に取り上げられます。

しかし、これらはそれぞれ別の組織・問題であり、事件への関与がすべて証明されているわけではありません。

731部隊と登戸研究所は同じ組織ではない

731部隊は、旧日本陸軍の関東軍防疫給水部にあたる組織です。

中国東北部を拠点として細菌戦や人体実験に関わったことで知られています。

一方、登戸研究所は旧陸軍の秘密研究機関で、偽造紙幣や秘密兵器、毒物などの研究を行っていました。

帝銀事件との関連で注目されるのは、登戸研究所が開発したとされる青酸ニトリールです。

これは特殊な青酸系毒物で、研究者や旧軍関係者が警察の事情聴取を受けるきっかけにもなりました。

青酸ニトリール説とは何か

帝銀事件の毒物をめぐっては、登戸研究所で開発された青酸ニトリールが使用されたのではないかという説が存在します。

明治大学の研究資料によると、元登戸研究所関係者の伴繁雄は、事件当初、犯行に使用された毒物は青酸ニトリールではないかとの見解を警察に伝えていました。

ところが、平沢逮捕後には、工業用青酸カリや青酸ソーダという見解に変化しています。

この変化は、帝銀事件の捜査方針が転換した時期と重なっています。

なぜ専門家の毒物に関する見解が変わったのか。

この点も、再審を求める側や事件研究者が注目してきた問題です。

ただし、青酸ニトリールが実際の犯行に使用されたと確定したわけではありません。

また、731部隊の関係者が帝銀事件の犯人だったと証明する直接的な証拠も確認されていません。

GHQは帝銀事件に関与していたのか

もう一つの大きな論点がGHQとの関係です。

第二次世界大戦後、GHQは日本の占領政策を進める一方、旧日本軍の研究者や技術者から情報を収集していました。

特に731部隊関係者については、人体実験や細菌戦に関する研究データを米国側が入手する代わりに、戦犯追及を免れる方向で交渉が行われたことが歴史研究で指摘されています。

明治大学平和教育登戸研究所資料館の研究でも、旧軍関係者とGHQの情報協力関係について、『甲斐捜査手記』や関係者の手記を用いた分析が行われています。

こうした占領政策の実態は、帝銀事件を取り巻く政治的・軍事的背景を理解するうえで重要です。

ただし、GHQと旧軍関係者の協力関係が存在したことと、GHQが帝銀事件の犯行や平沢逮捕を直接指示したことは別問題です。

後者を確定する証拠はありません。

731部隊・GHQ説と確定した事実の違い

関係する主体 帝銀事件との接点 2026年時点の評価
731部隊 旧軍の毒物・防疫研究に関する捜査対象 犯行への直接関与は未証明
登戸研究所 青酸ニトリールなど毒物研究との接点 毒物の正体は未確定
伴繁雄ら旧軍関係者 警察による事情聴取、毒物に関する意見 証言・見解の変化が研究対象
GHQ・G-2 旧軍関係者との情報協力関係 帝銀事件への直接指示は未証明
平沢貞通 名刺の流通経路から捜査対象となり逮捕 1955年に有罪・死刑確定。冤罪疑惑は継続

帝銀事件を理解する際には、旧軍の秘密研究が実在したこと、GHQとの情報協力が存在したこと、そして帝銀事件の犯人が誰だったかという問題を混同しないことが大切です。

【2026年現在の再審問題】第20次再審請求はなぜ終了したのか

平沢貞通の死後も、事件の再審を求める活動は続いています。

特に注目されたのが、2015年11月24日に申し立てられた第20次再審請求です。

この請求では、毒物鑑定や自白の信用性、目撃証言の心理学的分析などが新たな証拠として提出されました。

第20次再審請求で争われた新証拠

弁護団が重点を置いたのは、大きく分けて2つの問題です。

1. 毒物鑑定

確定判決が認定した青酸カリ説について、弁護団は被害者の血液と胃内容物の青酸濃度などを再検討しました。

専門家による実験や鑑定を通じ、確定判決の毒物認定に疑問があると主張しています。

2. 自白と目撃証言の心理学的検証

平沢の自白がどのように形成されたのか、また事件当時の目撃者の記憶や人物識別をどのように評価すべきなのかについて、心理学的な鑑定が提出されました。

弁護団は、平沢の供述が虚偽自白だった可能性を主張しています。

これらは単なる事件の印象論ではなく、確定判決が採用した証拠を改めて検証しようとする試みです。

2025年、請求人の死亡で手続が終了

第20次再審請求をめぐって大きな転機が訪れたのは2025年です。

明治大学平和教育登戸研究所資料館の館報第11号に掲載された、弁護団主任の一瀬敬一郎弁護士による記録では、次の経過が明らかにされています。

- 2025年1月1日:第20次再審請求人だった平沢貞通の孫が病死。
- 2025年1月17日:弁護団が東京高裁に請求人の死亡を報告。
- 2025年2月20日:弁護団が、請求人の死亡後も再審開始の判断まで手続を続けるべきだとする意見書を提出。
- 2025年3月27日:東京高裁が請求人の死亡による手続終了を決定。
- 2025年4月1日:弁護団が最高裁に特別抗告。
- 2025年4月25日:最高裁第三小法廷が特別抗告を棄却。

ここで注意したいのは、第20次再審請求が終了した理由です。

裁判所が新証拠を詳しく検討し、その証明力を否定した結果ではありません。

請求人の死亡によって、再審手続そのものが終了したのです。

したがって、第20次再審請求に提出された新証拠について、裁判所が実体的な判断を示したと理解するのは誤りです。

第21次再審請求の可能性は残されている

2025年の第20次請求終了によって、再審の可能性が完全になくなったわけではありません。

一瀬弁護士は同館報の記録で、刑事訴訟法439条1項4号に基づき、平沢の直系親族が第21次再審請求を申し立てることは可能だと説明しています。

また、明治大学平和教育登戸研究所資料館は2026年、2027年1月30日に帝銀事件の第19次・第20次再審請求の到達点と今後の展望を扱うシンポジウムを開催することを案内しています。

事件から80年を迎える2028年を前に、再審問題を改めて検討する動きが続いています。

2026年10月現在、最も重要なのは、再審請求が手続上終了したことと、平沢の有罪判決が法的に維持されていることを区別することです。

平沢の死刑判決は取り消されておらず、再審無罪が確定した事実もありません。

一方、新証拠の内容が司法の場で十分に審理されたわけでもありません。

この二つの事実が、現在の帝銀事件の再審問題を特徴づけています。

【帝銀事件とは】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:帝銀事件とは、どのような事件ですか?

A1:1948年1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で発生した毒殺強盗事件です。犯人は防疫関係者を装って行員ら16人に毒物を飲ませ、12人を死亡させました。現金と小切手を奪って逃走した犯人は、後に平沢貞通と認定されました。

Q2:帝銀事件の犯人は平沢貞通で確定していますか?

A2:刑事裁判上は平沢貞通の有罪が確定しています。1955年5月7日に死刑判決が確定しました。ただし、平沢は無実を主張し続け、死後も再審請求が続けられています。現在も冤罪疑惑が残る事件です。

Q3:帝銀事件で使用された毒物は何ですか?

A3:確定判決では青酸カリと認定されています。一方、弁護団は毒物鑑定を再検討し、青酸カリ以外の青酸化合物が使用された可能性を主張しています。青酸ニトリール説なども議論されていますが、毒物の具体的な正体は確定していません。

Q4:帝銀事件と731部隊には関係がありますか?

A4:警察は犯行に必要な毒物の知識や手際に注目し、旧731部隊や登戸研究所などの旧陸軍関係者を捜査しました。しかし、731部隊の関係者が帝銀事件の犯人だったと証明されたわけではありません。登戸研究所と731部隊も別組織です。

Q5:平沢貞通はなぜ死刑が執行されずに亡くなったのですか?

A5:死刑判決は確定していましたが、再審請求や事件の証拠をめぐる疑問が続く中、刑は執行されませんでした。平沢は1987年5月10日、95歳で八王子医療刑務所において死亡しました。死刑判決が取り消されたわけではありません。

Q6:帝銀事件の再審請求は現在どうなっていますか?

A6:第20次再審請求は2015年に申し立てられましたが、請求人だった平沢の孫が2025年1月に死亡し、同年3月に東京高裁が手続終了を決定しました。最高裁も4月に特別抗告を棄却しています。新証拠の実体判断には至っていません。

Q7:帝銀事件は未解決事件なのですか?

A7:刑事裁判上は平沢貞通の有罪が確定しているため、法的には犯人が認定された事件です。ただし、犯行に使用された毒物の正体、自白の信用性、旧軍関係者への捜査の経緯など、歴史的・科学的に議論が続く問題があります。その意味で、事件の真相をめぐる謎は残されています。

まとめ:帝銀事件の真相を考えるうえで重要な3つの視点

帝銀事件は、1948年に12人の命が奪われた凄惨な毒殺強盗事件です。

逮捕された平沢貞通には死刑判決が下され、1955年に確定しました。しかし、本人は無実を主張し続け、1987年に刑が執行されないまま95歳で亡くなりました。

その後も再審請求は続き、第20次請求では毒物鑑定や心理学的な供述分析など、新たな証拠が提出されました。しかし、2025年には請求人の死亡によって手続が終了し、2026年現在も有罪判決は維持されています。

【プロの結論】帝銀事件を読み解くための判断基準

この事件を理解するには、次の3つを分けて考える必要があります。

第一に、確定した刑事裁判の事実です。

平沢貞通は逮捕され、裁判で有罪となり、死刑が確定しました。この法的事実は現在も変わっていません。

第二に、証拠に対する検証の問題です。

自白の信用性、毒物の正体、名刺の流通経路、目撃証言の評価には、現在も再検討を求める声があります。これらは平沢の有罪判決を考えるうえで重要な論点です。

第三に、旧軍とGHQをめぐる歴史的背景です。

戦時中の毒物研究や戦後の情報協力関係は、実際の歴史的研究の対象です。しかし、その存在だけで帝銀事件の犯人やGHQの関与を断定することはできません。

帝銀事件が今も語り継がれる理由は、12人の命を奪った犯罪の凄惨さだけではありません。死刑が確定した人物が無実を訴え続け、本人の死後も再審を求める活動が続いているという、司法制度にとっても重い問題を抱えているからです。

2028年には事件発生から80年を迎えます。第21次再審請求の可能性や、新たな科学的検証がどのように進むのか。帝銀事件は、戦後日本の犯罪史だけでなく、自白の信用性、科学鑑定の重要性、再審制度のあり方を考えるうえでも、今後も検証されるべき事件です。

主要な確認資料

- 国立国会図書館・国会会議録検索システム:1948年3月26日の参議院治安及び地方制度委員会における警視総監の事件説明。事件の初期捜査、名刺、類似事件についての一次資料。
- 明治大学平和教育登戸研究所資料館・館報第5号:『甲斐捜査手記』に基づく旧陸軍関係者、名刺捜査、毒物研究、GHQとの関係の研究。
- 明治大学平和教育登戸研究所資料館・館報第11号(2025年):第20次再審請求の毒物鑑定、自白の心理学的検討、請求人死亡後の手続経過。
- 明治大学平和教育登戸研究所資料館・2027年シンポジウム案内:第19次・第20次再審請求の到達点と今後の展望。
- TBS NEWS DIG・2025年8月21日:事件現場や犯行経緯、捜査の歴史に関するアーカイブ取材。