柴田政人の現在は?通算1,767勝とダービー制覇、2019年引退後の歩みを徹底解説
柴田政人(しばた・まさと)氏は、1993年の日本ダービーをウイニングチケットで制し、19回目の挑戦で悲願のダービージョッキーとなった元JRA騎手・調教師です。騎手時代には通算11,728戦1,767勝、GI通算12勝という輝かしい成績を残し、ミホシンザンとの皐月賞・菊花賞制覇など、競馬史に残る実績を積み重ねました。
2026年10月現在、柴田政人氏は78歳。2019年2月に調教師を定年で引退しており、騎手・調教師としての現役生活には幕を下ろしています。2026年9月には、甥である柴田善臣騎手の引退発表を受け、叔父として、また先輩騎手として労いの言葉を寄せました。この記事では、生い立ちから騎手時代の成績、調教師への転身、引退後の近況、柴田善臣氏との関係までを時系列で整理します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 騎手時代の実績:JRA公式の競馬の殿堂によると、通算11,728戦1,767勝、GI通算12勝を記録。
- 最大の栄光:1993年5月30日、ウイニングチケットとのコンビで19回目の挑戦となる日本ダービーを初制覇。
- 調教師引退:1994年の落馬負傷をきっかけに騎手を引退し、調教師へ転身。2019年2月28日に定年で引退。
- 2026年の近況:9月に甥の柴田善臣氏が騎手を引退。政人氏は長年の努力をねぎらい、厳しく接してきた叔父としての思いを語った。
- 競馬界での評価:2014年にJRA競馬の殿堂入りを果たした名ジョッキー。
【2026年現在】柴田政人は何をしている?78歳の近況と引退後の生活

柴田政人氏は1948年8月19日生まれ。2026年10月現在、78歳です。
騎手として約28年間、調教師として約23年間にわたって中央競馬の現場に携わりましたが、2019年2月28日をもって調教師を引退しています。
2026年の柴田政人氏について注目された出来事が、9月15日に発表された甥・柴田善臣騎手の現役引退です。長年にわたって第一線で活躍してきた甥の引退に際し、政人氏は日刊スポーツの取材に応じ、労いの言葉を送りました。
2026年9月、甥・柴田善臣の引退に寄せたコメント
柴田善臣騎手は1966年7月30日生まれ。1985年に騎手デビューし、1993年の安田記念をヤマニンゼファーで制するなど、長くJRAを代表する騎手として活躍しました。
2026年9月15日、JRAは60歳となった柴田善臣騎手の現役引退を発表。4月に負った右肩の負傷からの復帰がかなわず、9月18日付で騎手免許を取り消すことになりました。引退後はJRAアドバイザーに就任する予定と報じられています。
この発表を受け、叔父の柴田政人氏は次のようにコメントしました。
「けがをしながら、よくここまで頑張ってくれたなと思う。ご苦労さま」
日刊スポーツの2026年9月15日付の報道によると、政人氏は幼いころの善臣騎手について「かわいいおいっ子だった」と振り返っています。
ただし、騎手になってからは親族として甘やかすのではなく、先輩騎手として厳しく接してきたそうです。師匠である中野隆良調教師とも連携し、厳しい言葉で指導することもあったと明かしています。
その理由については、善臣騎手に人間として成長してほしかったこと、そして騎手という仕事を続けるうえで体を大切にしてほしかったことを挙げています。
政人氏が特に印象に残っている善臣騎手のレースは、1998年の天皇賞・秋。オフサイドトラップで勝利した姿を見て、叔父としてうれしく感じていたといいます。
調教師引退後も競馬との縁は続いている

2019年の引退コメントでは、柴田政人氏は競馬を見ることが好きで、これからも競馬を見ていきたいという趣旨の言葉を残しています。
騎手として馬に乗る立場から、調教師として馬を育てる立場へ。そして長い競馬人生を終えた後も、競馬への関心を持ち続けていることがうかがえます。
2026年現在、政人氏の新たな所属先や役職について、広く公表された情報は確認されていません。一方、甥の引退に際して寄せたコメントからは、競馬界で長年培ってきた経験と、後輩を思う姿勢が今も感じられます。
【生い立ちと経歴】青森県の馬産農家から「花の15期生」の名騎手へ
柴田政人氏は1948年8月19日、青森県で生まれました。
競馬との縁は幼少期から始まっています。実家は米作農家であると同時に馬産も手掛けており、小学生のころから馬にまたがる環境が身近にありました。
さらに、親族にも競馬関係者がいました。叔父の柴田不二男氏は騎手として1956年の桜花賞をミスリラで制した人物で、後に調教師へ転身。兄の柴田政見氏も騎手となっています。
東スポ競馬の連載「道は開ける」では、政人氏が両親に騎手になりたいと相談した際、猛烈に反対されたエピソードが紹介されています。叔父が落馬で大けがをした経験もあり、両親は危険な職業に進むことを心配していました。
それでも騎手への思いは変わりませんでした。15歳で青森を離れ、騎手を目指して東京へ向かいます。
岡部幸雄や福永洋一と並ぶ「花の15期生」
柴田政人氏を語るうえで欠かせないのが、競馬界の名騎手を数多く輩出した「花の15期生」です。
同期には岡部幸雄氏、福永洋一氏、伊藤正徳氏らがいました。それぞれが日本競馬を代表する存在となり、長年にわたって競馬界を盛り上げました。
1966年には中山競馬場の高松三太厩舎で騎手候補生となり、翌1967年に騎手デビュー。若いころから着実に実績を積み重ね、1973年には関東リーディングを獲得するまでに成長しました。
柴田政人の生涯とキャリアを年表で整理
| 年代・時期 | 主な出来事 | 競馬界での意味 |
|---|---|---|
| 1948年8月19日 | 青森県で誕生 | 馬産農家の家庭で育つ |
| 1964年ごろ | 15歳で青森を離れる | 騎手への道を歩み始める |
| 1966年 | 高松三太厩舎で騎手候補生となる | 本格的な騎手修業を開始 |
| 1967年 | 騎手デビュー | 中央競馬でのキャリアが始まる |
| 1973年 | 関東リーディング獲得 | トップジョッキーへの成長 |
| 1978年 | ファンタストで皐月賞優勝 | クラシック初制覇 |
| 1985年 | ミホシンザンで皐月賞・菊花賞優勝 | クラシック二冠を達成 |
| 1988年 | 年間132勝でJRA最多勝利騎手 | 騎手としての全盛期 |
| 1993年5月30日 | ウイニングチケットで日本ダービー優勝 | 19回目の挑戦で悲願達成 |
| 1994年 | 落馬負傷を経て騎手引退 | 調教師への転身につながる |
| 1996年 | 調教師として初出走・初勝利 | 第二の競馬人生が始まる |
| 2014年 | JRA競馬の殿堂入り | 競馬界への功績が顕彰される |
| 2019年2月28日 | 調教師を定年引退 | 約55年に及ぶ競馬人生に一区切り |
| 2026年9月 | 柴田善臣騎手の引退にコメント | 叔父として、先輩として労いの言葉を送る |
この年表から分かるのは、柴田政人氏のキャリアが単なる騎手としての成功にとどまらないことです。
若くして騎手の道を選び、トップジョッキーとなり、けがによって騎乗生活を終えた後は調教師として新しい役割を担いました。競馬界で長く活動し続けたこと自体が、同氏の大きな特徴です。
【騎手時代の成績】通算1,767勝・GI12勝を誇る名ジョッキー
柴田政人氏の騎手としての実績は、JRAの競馬の殿堂に掲載された公式記録によって確認できます。
通算11,728戦1,767勝。さらに旧八大競走9勝を含むGI通算12勝という記録を残しています。
JRAの顕彰理由では、当時の騎手歴代10位となる1,767勝を挙げたこと、1988年に最多勝利騎手となったことなどが評価されています。
1988年には年間132勝でリーディングを獲得
柴田政人氏が年間最多勝利騎手となったのは1988年です。この年は132勝を記録しました。
当時は岡部幸雄氏をはじめ、東西に実力者がそろっていた時代です。現在のように騎手の海外遠征や外国人騎手の短期免許制度が一般化する以前から、国内のトップジョッキー同士が激しい競争を繰り広げていました。
そのなかで年間132勝を挙げたことは、特定の名馬だけに依存しない騎乗技術と、長期間にわたる安定した実力を示しています。
柴田政人の主なGI優勝歴
JRAの競馬の殿堂に掲載された主なGI勝利は次のとおりです。
- 1978年・皐月賞:ファンタスト
- 1981年・桜花賞:ブロケード
- 1984年・朝日杯3歳ステークス:スクラムダイナ
- 1985年・皐月賞:ミホシンザン
- 1985年・菊花賞:ミホシンザン
- 1986年・宝塚記念:パーシャンボーイ
- 1987年・安田記念:フレッシュボイス
- 1987年・天皇賞(春):ミホシンザン
- 1987年・天皇賞(秋):キョウエイプロミス
- 1989年・有馬記念:イナリワン
- 1993年・日本ダービー:ウイニングチケット
このほか、1980年の天皇賞(秋)ではプリテイキャストに騎乗して優勝しています。これらを含め、JRA公式記録ではGI通算12勝です。
また、騎手時代の重賞勝利数は89勝。GIだけでなく、さまざまなカテゴリーの重賞で結果を残していたことも特徴です。
通算1,767勝と1,768勝、数字が異なる理由は?
柴田政人氏の通算勝利数を調べると、競馬データベースによって1,767勝と1,768勝の表示差が見られる場合があります。
JRAの競馬の殿堂に掲載されている公式顕彰プロフィールは、11,728戦1,767勝です。したがって、人物紹介や実績を説明する際には、JRAの公式顕彰記録である1,767勝を基準にするのが適切です。
なお、騎手の通算成績と調教師としての管理馬の成績は別の記録です。1,767勝は騎手時代の数字であり、調教師時代の管理馬による勝利数を合算したものではありません。
【ミホシンザンとウイニングチケット】皐月賞・菊花賞、そして19回目の日本ダービー
柴田政人氏の競馬人生を象徴する馬として、特に名前が挙がるのがミホシンザンとウイニングチケットです。
前者はクラシック二冠と天皇賞(春)を制した名馬。後者は柴田政人氏に念願の日本ダービー初制覇をもたらした競走馬です。
ミホシンザンとのコンビで1985年のクラシック二冠
ミホシンザンは1982年生まれの牡馬で、父は三冠馬シンザンです。
1985年、柴田政人騎手とのコンビで皐月賞と菊花賞を制覇。クラシック二冠を達成し、世代を代表する競走馬として名を残しました。
特に皐月賞の勝利は、柴田政人氏にとって1978年のファンタストに続く2度目の皐月賞制覇でした。
その後、ミホシンザンは1985年の菊花賞でも勝利。さらに1987年には天皇賞(春)も制しています。
つまり、ミホシンザンとのコンビでは、皐月賞、菊花賞、天皇賞(春)という3つのGIタイトルを獲得したことになります。
JRAの競走成績によれば、1985年の菊花賞は11月10日に京都競馬場で開催され、柴田政人騎手のミホシンザンが1着。2着のスダホークを退けて勝利しました。
1987年4月29日の天皇賞(春)でも、ミホシンザンは柴田政人騎手を背に優勝。3200メートルの長距離GIで改めて実力を示しました。
1985年の日本ダービーに出走できなかった悔しさ
ミホシンザンとのコンビには、もう一つ忘れてはならない背景があります。
1985年の皐月賞を制したミホシンザンは、続く日本ダービーでも有力候補として期待されていました。しかし、皐月賞後に骨折が判明し、ダービーへの出走はかないませんでした。
柴田政人騎手にとっても、ダービー制覇への期待が高まっていた時期でした。名馬とのコンビで大舞台に挑む機会を失ったことは、後のウイニングチケットによる勝利を語る際にも重要な出来事です。
1993年5月30日、ウイニングチケットで悲願達成
そして1993年5月30日、第60回日本ダービー。
柴田政人騎手はウイニングチケットに騎乗し、19回目のダービー騎乗で初めて優勝しました。当時44歳。長年追い続けてきたダービージョッキーの称号を手にした瞬間です。
このレースはウイニングチケット、ビワハヤヒデ、ナリタタイシンによる「3強対決」としても知られています。
皐月賞ではウイニングチケットが4着、ナリタタイシンが1着、ビワハヤヒデが2着。日本ダービーでは、この3頭が改めて東京競馬場に集結しました。
レースではウイニングチケットが早めに進出し、直線で先頭へ。ビワハヤヒデとナリタタイシンが迫る展開となりましたが、最後まで先頭を譲らずゴールしました。
JRAレーシングビュアーの名馬紹介でも、ウイニングチケットは柴田政人騎手に念願のタイトルをもたらした馬として紹介されています。
また、当時のレースを振り返る報道では、柴田騎手がレース後に語った「世界のホースマンにダービーを勝ったことを伝えたい」という言葉も伝えられています。
この言葉には、単に一つのGIを勝った喜びだけではなく、長年ダービーを目指し続けてきた騎手としての誇りが表れています。
ウイニングチケットが残したもの
ウイニングチケットは1993年の日本ダービーを制した後も現役を続け、通算14戦6勝を記録しました。2023年2月18日、北海道浦河町のうらかわ優駿ビレッジAERUで33歳で亡くなっています。
訃報に際して柴田政人氏は、日刊スポーツの報道を通じて、念願のダービーを勝たせてくれた忘れられない馬であるという趣旨のコメントを寄せました。
ウイニングチケットは、柴田政人という騎手の名前を日本競馬史に刻んだ存在です。馬と騎手の双方にとって、1993年のダービーはキャリアを象徴する一戦となりました。
【騎手引退から調教師へ】1994年の負傷と2019年の定年引退
1993年に日本ダービーを制し、騎手として大きな目標を達成した柴田政人氏。しかし、その騎手人生は翌年、大きな転機を迎えます。
1994年の落馬負傷が騎手引退のきっかけに
1994年、柴田政人騎手はレース中の落馬事故で大きなけがを負いました。
スポニチの2019年3月1日付の競馬人生を振り返る記事によると、騎乗馬が最後の直線で骨折し、柴田騎手も馬場に投げ出されました。この負傷が原因となり、騎手としての現役生活を終えることになりました。
1993年にダービーを制した翌年の出来事であり、競馬ファンにとっても惜しまれる引退でした。
ただし、柴田政人氏は競馬界から離れることを選んだわけではありません。次の役割として選んだのが、調教師への転身でした。
1995年に調教師免許を取得、1996年から厩舎を運営
柴田政人氏は1995年に調教師免許を取得。1996年3月3日に中山競馬場でオンナノネガイを管理馬として初出走させました。
初勝利は同年3月9日。オンワードモンローで調教師としての初勝利を記録しています。
騎手時代は自ら手綱を握って馬の能力を引き出していましたが、調教師になってからは、馬の育成や調整、騎手との連携、厩舎の運営など、異なる責任を担うことになりました。
スポニチの2019年1月のインタビューでは、調教師として過ごした年月について、騎手時代よりも長く感じるほど大変だったという趣旨を語っています。
調教師としての成績は190勝
騎手時代にGI12勝を挙げた柴田政人氏ですが、調教師としての成績は騎手時代とは異なるものでした。
スポニチが2019年1月に掲載したプロフィールによると、調教師としてのJRA通算成績は4,223戦190勝。重賞勝利はありませんでした。
管理馬にはペイストリーシェフ、ホッカイカンティ、ディーエスハリアーなどがいました。インタビューでは、あと一歩で重賞に届かなかった管理馬についても振り返っています。
また、弟子の石橋脩騎手がディーエスハリアーで菊花賞に挑戦したことにも触れており、馬だけでなく、若い騎手を育てることにも目を向けていた様子が分かります。
2019年2月28日、定年で調教師を引退
柴田政人氏の調教師引退は、2019年2月28日です。
JRAが発表した2019年度の引退調教師一覧では、柴田政人氏は「定年」による引退者として掲載されています。
つまり、2019年の引退は調教師としての成績不振や病気を理由としたものではなく、年齢による定年退職です。
引退直前の2月24日には、中山競馬場の8レースに管理馬ヒロノワカムシャを出走させました。このレースが調教師としての最後の出走となり、結果は10着でした。
ラジオNIKKEIがJRA発表として伝えた引退コメントでは、次のように語っています。
「これで終わりかと思うと寂しい気持ちです。自分が高松三太厩舎からデビューしたときと競馬も変わってきましたが、競馬を見るのが好きなので、これからも競馬を見ていきたいと思っています」
騎手として約28年間、調教師として約23年間。合わせて約55年にわたる競馬人生に、一つの区切りをつけた瞬間でした。
【柴田善臣との関係】叔父と甥の絆、2026年に明かされた指導の裏側
柴田政人氏について調べると、関連キーワードとして頻繁に登場するのが柴田善臣氏です。
2人は同じ柴田姓を持つだけの関係ではありません。柴田善臣氏は柴田政人氏の甥にあたります。
2026年9月の柴田善臣騎手の引退報道では、政人氏が叔父としてコメントを寄せたことで、改めて2人の関係に注目が集まりました。
かわいい甥から、厳しく指導する後輩騎手へ
柴田善臣氏は1985年に騎手デビュー。1993年にはヤマニンゼファーで安田記念を制し、GI初勝利を挙げました。その後も長年にわたってJRAの第一線で騎乗を続け、2026年に60歳で現役生活を終えました。
政人氏は、善臣氏が幼いころから知る叔父である一方、競馬の世界では先輩騎手という立場でもありました。
2026年9月の日刊スポーツの報道によると、政人氏は善臣氏に対して、中野隆良調教師とともに厳しく接してきたと説明しています。
「おじさんに怒られたよ」と善臣氏が話していたこともあったそうです。
その指導の背景にあったのは、甥に対する期待でした。騎手として技術を磨くだけでなく、人間として大きく成長してほしい。そして、長く競馬を続けるためにも体を大切にしてほしい。そうした思いが厳しい言葉につながっていたのです。
オフサイドトラップの天皇賞・秋が忘れられないレース
政人氏が印象に残る甥のレースとして挙げたのは、1998年の天皇賞・秋でした。
柴田善臣騎手はオフサイドトラップに騎乗して優勝。サイレンススズカの故障による競走中止という波乱もあったレースですが、オフサイドトラップは最後まで走り切り、勝利を手にしました。
政人氏はこの勝利をうれしく見ていたと振り返っています。
自分自身が日本ダービーを制した経験を持つ名ジョッキーだからこそ、後輩として成長した甥の大舞台での勝利にも、特別な思いがあったのでしょう。
政人厩舎の管理馬でも19勝していた柴田善臣
2026年の報道で特に興味深いのは、柴田善臣騎手が叔父の管理馬にも騎乗し、19勝を挙げていたという点です。
政人氏はこの実績について、次のように話しています。
「僕が調教師として管理した馬で19勝していると聞き、お世話になりました。本当にご苦労さまでした」
この言葉からは、単に親族として甥の引退を惜しむだけでなく、競馬の現場でともに仕事をしてきた騎手仲間としての感謝も感じられます。
叔父が管理する馬に甥が騎乗するという関係は、競馬の世界ならではのものです。厩舎の調教師と騎手という仕事上の関係がありながら、そこには家族としてのつながりも存在していました。
【JRA競馬の殿堂入り】柴田政人が競馬史に残した功績と評価
柴田政人氏は2014年、JRAの競馬の殿堂に顕彰されました。
JRAが公表している平成26年度の顕彰者プロフィールには、通算1,767勝、GI通算12勝、1988年の最多勝利騎手獲得などが顕彰理由として記されています。
競馬の殿堂入りは何を意味するのか
JRAの競馬の殿堂は、日本競馬の発展に大きく貢献した競走馬や人物を顕彰する制度です。
柴田政人氏の場合、単に通算勝利数が多かったというだけではありません。
- 通算11,728戦1,767勝という長期間にわたる騎手実績
- 旧八大競走9勝を含むGI通算12勝
- 1988年の年間132勝による最多勝利騎手獲得
- ミホシンザンやウイニングチケットなどの名馬との実績
- 日本ダービーを19回目の騎乗で制した競馬史に残る記録
これらの積み重ねが評価されたものです。
騎手と調教師、2つのキャリアをどう評価するべきか
柴田政人氏の経歴を評価する際には、騎手時代と調教師時代を分けて見ることが大切です。
騎手としてはGI12勝、重賞89勝という輝かしい実績を残しました。一方、調教師としてはJRA通算190勝で、重賞勝利には届いていません。
数字だけを見ると、両者の間には大きな差があります。しかし、そもそも騎手と調教師では求められる能力が異なります。
騎手はレース当日に馬の能力を最大限に引き出す仕事です。一方、調教師は日々の管理や育成、体調の把握、出走計画などを通じて馬の競走能力を整える役割を担います。
現役時代に優れた騎手だったからといって、必ずしも調教師として同じタイトルを獲得できるわけではありません。
柴田政人氏の調教師時代を評価する際には、重賞勝利の有無だけでなく、約23年間にわたって厩舎を運営し、190勝を挙げたという実績も考慮する必要があります。
【プロの結論】柴田政人の本当の功績は19回目の挑戦だけではない
柴田政人氏の競馬人生を振り返ると、最も象徴的な出来事は1993年の日本ダービー制覇です。
しかし、その一勝だけで同氏のキャリアを説明することはできません。
1978年のファンタストによる皐月賞制覇、1985年のミホシンザンとのクラシック二冠、1988年の年間132勝、1989年のイナリワンによる有馬記念制覇。こうした実績が積み重なったからこそ、1993年のダービー制覇には大きな意味がありました。
評価すべきポイントは3つ
第一に、長期間にわたってトップレベルを維持したこと。
1967年のデビューから1994年の負傷まで、長い期間にわたって騎手として活躍しました。通算1,767勝という数字は、その継続性と実力を示しています。
第二に、異なるタイプの名馬で結果を残したこと。
ミホシンザンのようなクラシックホースだけでなく、イナリワンやウイニングチケットなど、それぞれ個性の異なる競走馬とのコンビでGIを勝っています。馬の特徴を理解し、能力を引き出す技術があったことがうかがえます。
第三に、騎手引退後も競馬の現場で経験を生かしたこと。
1994年の負傷で騎手生活を終えた後、調教師へ転身。2019年の定年まで厩舎を運営しました。騎手時代の栄光だけにとどまらず、別の立場から競馬に関わり続けたことも評価すべき点です。
柴田政人という人物を理解するための判断基準
柴田政人氏の情報を調べる際には、次の3点を押さえると、経歴の誤解を避けられます。
- 通算勝利数はJRA公式記録を優先する:1,767勝という数字はJRAの競馬の殿堂に掲載された記録です。
- 騎手引退と調教師引退を混同しない:騎手引退は1994年の負傷がきっかけで、調教師引退は2019年の定年によるものです。
- 柴田善臣との関係は叔父と甥:2026年の報道でも政人氏本人が叔父としてコメントしています。
こうした点を整理すると、柴田政人氏は単なる「ダービーを勝った元騎手」ではなく、日本競馬の一時代を支えたホースマンとして理解できます。
柴田政人に関するよくある質問(FAQ)
Q1:柴田政人は2026年現在、何歳ですか?
A1:1948年8月19日生まれの78歳です。2019年2月28日に調教師を定年引退しており、騎手・調教師としての現役生活は終了しています。
Q2:柴田政人の騎手時代の通算成績は何勝ですか?
A2:JRA公式の競馬の殿堂によると、通算11,728戦1,767勝です。GI通算12勝、重賞89勝を記録しています。
Q3:柴田政人が日本ダービーを勝ったのは何年ですか?
A3:1993年5月30日です。ウイニングチケットに騎乗し、19回目のダービー騎乗で初優勝を果たしました。当時44歳でした。
Q4:柴田政人とミホシンザンの関係は?
A4:柴田政人氏はミホシンザンの主戦騎手として、1985年の皐月賞と菊花賞、1987年の天皇賞(春)を制しました。GI3勝をともにした代表的なコンビです。
Q5:柴田政人が調教師を引退した理由は何ですか?
A5:2019年2月28日に定年を迎えたためです。JRAの発表では定年による引退者として掲載されています。1994年の落馬負傷による騎手引退とは別の理由です。
Q6:柴田政人と柴田善臣は親戚ですか?
A6:はい。柴田善臣氏は柴田政人氏の甥です。2026年9月の善臣氏の引退報道では、政人氏が叔父として労いのコメントを寄せ、厳しく指導してきた過去についても語っています。
Q7:柴田政人はJRA競馬の殿堂入りをしていますか?
A7:はい。2014年の平成26年度顕彰者として競馬の殿堂入りを果たしています。通算1,767勝やGI通算12勝など、中央競馬への貢献が評価されました。
まとめ:柴田政人は日本競馬史に残る名ジョッキー
柴田政人氏は、1948年に青森県で生まれ、1967年に騎手デビュー。通算11,728戦1,767勝、GI通算12勝という輝かしい実績を残した名ジョッキーです。
ミホシンザンとの皐月賞・菊花賞制覇、1988年の年間最多勝利、そして1993年のウイニングチケットによる日本ダービー制覇。特に19回目の挑戦で手にしたダービーのタイトルは、今も競馬ファンの記憶に残っています。
1994年の落馬負傷によって騎手生活を終えた後は調教師に転身し、2019年2月に定年引退。2026年現在は78歳となり、甥の柴田善臣氏が60歳で現役を退いた際には、長年の努力をねぎらう言葉を送りました。
柴田政人氏の功績は、単に勝利数やGIタイトルの多さだけでは測れません。騎手として頂点を極め、けがという予期せぬ転機を経ても競馬の世界で新たな役割を担い続けたこと。そして次の世代へ経験をつないできたことに、その人物の大きさがあります。
ウイニングチケットとともに手にした1993年の日本ダービーは、19回目の挑戦で夢をかなえた名勝負として、これからも日本競馬の歴史に語り継がれていくでしょう。
主な根拠資料(JRA公式記録・報道)