江利チエミと高倉健の結婚・離婚の真相は?出会いから墓参りまでを年表で徹底解説

目次

江利チエミと高倉健は、1956年の映画共演をきっかけに交際を深め、1959年2月16日に結婚した。昭和を代表する人気歌手と、後に日本映画界を代表する大スターとなる俳優の結婚は、大きな注目を集めた。しかし、幸せな結婚生活は長く続かず、1971年に離婚。その背景には、江利チエミの異父姉をめぐる金銭トラブルや、夫婦の生活のすれ違いがあったと報じられている。

さらに、二人の間には子どもをめぐる悲しい出来事があり、離婚後も高倉健が江利チエミの墓参りを続けていたという証言も残されている。江利チエミは1982年に45歳で亡くなり、高倉健も2014年に83歳で生涯を閉じた。二人の関係を理解するには、離婚という結果だけでなく、その後も残された思いをたどる必要がある。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】 - 出会いと結婚: 1956年の映画『恐怖の空中殺人』で共演し、1959年2月16日に結婚。 - 離婚の背景: 異父姉による金銭トラブルに加え、高倉健の仕事中心の生活や夫婦のすれ違いも関係していた。 - 子どもについて: 1962年に妊娠したものの、妊娠高血圧症候群が伝えられるなか、出産には至らなかった。 - 離婚後の関係: 高倉健の墓参りが報道され、1972年の本人の手記にも江利チエミへの思いが記されている。 - 二人の最期: 江利チエミは1982年、高倉健は2014年に亡くなった。

【出会いと結婚】江利チエミと高倉健は1956年の映画共演で知り合った

江利チエミ高倉健

江利チエミと高倉健の出会いは、1956年公開の東映映画『恐怖の空中殺人』だった。

当時の江利チエミは、すでに歌手として高い人気を獲得していた。一方、高倉健は東映に所属する若手俳優であり、後年の国民的スターとしての地位を確立する前だった。

二人の結婚は、当時の芸能界でも大きな話題となった。

江利チエミは「三人娘」の一人として活躍

江利チエミ高倉健


1937年1月11日、東京生まれ。本名は久保智恵美。1952年に「テネシー・ワルツ」でレコードデビューし、美空ひばり、雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれた。

キングレコードの公式プロフィールによると、江利チエミは12歳ごろから進駐軍キャンプでジャズを歌い、1952年に「テネシー・ワルツ」でデビューした。

同曲と「トゥー・ヤング」がヒットし、若くして全国的な人気歌手となる。

歌手としてだけでなく、映画やテレビ、舞台でも才能を発揮した。特に映画『サザエさん』シリーズでは主人公のフグ田サザエを演じ、幅広い世代に親しまれた。

NHK紅白歌合戦には1953年から16年連続で出場している。

高倉健は江利チエミの結婚相手として注目された

江利チエミ高倉健


1931年2月16日、福岡県生まれ。本名は小田剛一。1955年に東映へ入り、映画『電光空手打ち』などに出演。後に任侠映画や『幸福の黄色いハンカチ』『鉄道員』などで知られる存在となった。

二人の関係については、江利チエミの評伝や関係者の回想が複数の報道で紹介されている。

PRESIDENT Onlineが藤原佑好の評伝をもとに紹介した内容では、当初の江利チエミには別の恋心があったものの、高倉健から積極的にアプローチされ、交際に発展したとされる。

また、江利チエミと親交のあった大村崑も、高倉健が彼女の楽屋を頻繁に訪れていたエピソードを後年に語っている。

1959年2月16日、二人は結婚

二人が結婚したのは、1959年2月16日。東京都千代田区の帝国ホテルで結婚式を挙げた。

当時、高倉健は28歳、江利チエミは22歳だった。

興味深いのは、結婚した2月16日が高倉健の誕生日でもあったことだ。

江利チエミは結婚を機に一度歌手活動から離れ、家庭に入った。しかし、歌い続けたいという思いもあり、1960年には芸能活動を再開している。

後に高倉健は日本映画界を代表する俳優となり、江利チエミも歌手・女優として活動を続けた。二人はそれぞれの仕事を大切にしながら生活していた。

【年表で整理】1959年の結婚から1971年の離婚までに何があった?

二人の関係を理解するには、結婚から離婚までの出来事を時系列で確認すると分かりやすい。

特に重要なのは、1962年の妊娠、異父姉との同居、1970年の自宅火災、そして1971年の離婚だ。

江利チエミと高倉健の関係年表

時期 出来事 二人への影響 1952年 江利チエミが「テネシー・ワルツ」でデビュー 歌手として人気を獲得 1956年 映画『恐怖の空中殺人』で共演 二人の出会い 1959年2月16日 帝国ホテルで結婚 夫婦生活が始まる 1960年 江利チエミが芸能活動を再開 家庭と仕事を両立 1962年ごろ 妊娠と異父姉との同居 家庭環境に変化 1970年 夫婦の自宅が火災に遭う 生活基盤にも影響 1971年 二人が離婚 約12年間の結婚生活に終止符 1972年 異父姉への告訴、高倉健の手記 離婚の背景が明らかになる 1982年2月13日 江利チエミが45歳で死去 早すぎる生涯の終わり 2014年11月10日 高倉健が83歳で死去 日本映画界の大スターが逝去

この年表から分かるのは、二人の結婚生活が単純な不仲だけで終わったわけではないことだ。

家庭を取り巻く問題が複雑になっていく一方で、仕事の忙しさや家族の問題も重なっていた。

【子供と妊娠の真相】1962年に授かった命と妊娠高血圧症候群

江利チエミと高倉健の結婚生活を語るうえで、子どもをめぐる出来事は避けて通れない。

二人には子どもがいなかったが、結婚から約3年後の1962年、江利チエミが妊娠したと報じられている。

しかし、その妊娠は出産にはつながらなかった。

妊娠高血圧症候群が関係したと報道

2014年11月の日刊スポーツは、江利チエミが1962年に妊娠したものの、妊娠高血圧症候群のため中絶を余儀なくされたと報じている。

一方、2012年の女性自身の記事では、二人の子どもについて流産したとの関係者証言が紹介されている。

つまり、妊娠したことと出産に至らなかったことは複数の報道で伝えられているが、医療経過については報道によって表現に違いがある。

当時の江利チエミにとって、母親になることは大きな意味を持っていたと評伝を紹介する記事は伝えている。

高倉健の生前墓に残された水子地蔵

二人の子どもにまつわる話として、もう一つ知られているのが水子地蔵だ。

2012年の女性自身の記事によると、高倉健は1972年、神奈川県の鎌倉霊園に生前墓を用意していた。その近くには、江利チエミとの間に授かった子どもを供養する水子地蔵が建てられていたという。

記事では、戒名の一文字に江利チエミの本名に由来する文字が使われていたとも紹介されている。

さらに、江利チエミ本人はこの水子地蔵の存在を知らないまま亡くなったと、関係者の証言として伝えられている。

このエピソードは、二人の離婚が必ずしも愛情の消失を意味していなかったことを考える材料になる。

【離婚理由の真相】異父姉との金銭トラブルと高倉健自身の告白

江利チエミと高倉健の離婚理由として、最も多く取り上げられてきたのが江利チエミの異父姉をめぐる金銭トラブルだ。

しかし、1971年の離婚については、異父姉の問題だけで説明できるものではない。

異父姉を信用して財産管理を任せていた

江利チエミの異父姉は、1962年ごろに彼女の前に現れたとされる。

異父姉は母親が父親と結婚する前に生んだ子どもで、江利チエミとは母親が同じだった。

江利チエミは姉の境遇を気の毒に思い、同居を認めて生活を支えたという。

当時の評伝を紹介したPRESIDENT Onlineの記事によれば、江利チエミは姉を信頼し、実印などの重要なものまで預けていた。

しかし、その信頼が後に大きな問題へと発展する。

銀行預金の使い込みや自宅の抵当設定

藤原佑好の評伝『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』では、江利チエミと高倉健の離婚に関係した異父姉の問題が詳しく取り上げられている。

PRESIDENT Onlineが同書と清川虹子の証言をもとに紹介した内容では、異父姉は江利チエミの実印を使い、銀行預金を使い込んだほか、高利貸しから借金を重ね、夫婦の自宅を抵当に入れていたという。

さらに、異父姉は高倉健に別の女性がいるという話を江利チエミに吹き込み、離婚を勧めていたとも伝えられている。

ここで注意したいのは、高倉健に実際に別の女性がいたと確認されたわけではないという点だ。女性関係の話は、あくまで異父姉が江利チエミに伝えた内容として紹介されている。

1970年の自宅火災と家族の不幸

1970年には、二人が暮らしていた自宅が火災に遭った。

その後、江利チエミの生活を支えていた長兄も亡くなり、夫婦を取り巻く環境はさらに厳しくなっていく。

高倉健は俳優として多忙を極め、家庭を離れる時間が増えていたと評伝をもとにした記事は伝えている。

江利チエミにとっては、信頼していた家族との関係が崩れ、財産上の問題も抱えるという厳しい状況だった。

1971年に離婚、翌年には異父姉を告訴

こうした状況のなか、江利チエミと高倉健は1971年に離婚した。

その翌年、江利チエミは異父姉を告訴した。PRESIDENT Onlineが評伝をもとに紹介した記事では、姉には懲役3年の実刑判決が下されたとされている。

金銭問題の規模については、報道で数億円規模の借財があったと紹介されている。

高倉健は離婚について何を語っていたのか

ここで重要になるのが、高倉健自身が残した記録だ。

PRESIDENT Onlineが紹介した『サンデー毎日』1972年12月10日号の特別手記「男の人生を語らせてもらいます」には、離婚についての本人の振り返りが掲載されている。

高倉健は、結婚してから12年間、俳優という仕事にひたすら打ち込み、家庭との両立ができなかったことを振り返っている。

また、自分の生き方によって江利チエミを不幸にしてしまったのではないかという自責の念も記していた。

つまり、高倉健自身は離婚の背景を、異父姉の問題だけでなく、自分の仕事中心の生き方にも求めていたのである。


離婚理由を理解するための3つの視点


背景1

異父姉の金銭トラブル

預金の使い込みや借金、自宅の抵当設定などが報じられている。


背景2

夫婦の生活のすれ違い

高倉健の多忙な俳優活動により、家庭で過ごす時間が減っていた。


背景3

高倉健自身の反省

1972年の手記で、仕事一途だった自分の生き方が妻を不幸にしたのではないかと振り返った。


離婚の真相を理解するうえでは、異父姉の問題を直接的な引き金として捉えながらも、夫婦それぞれが抱えていた事情を合わせて見る必要がある。

【離婚後の関係】高倉健は江利チエミの墓参りを続けていた?

1971年に離婚した二人は、その後、夫婦として再び一緒になることはなかった。

しかし、高倉健が江利チエミの死後も彼女を思い続けていたという話は、複数の報道で紹介されている。

江利チエミの死後も墓参りを続けたという証言

江利チエミは1982年2月13日、45歳で亡くなった。

2012年8月30日の女性自身の記事では、高倉健が江利チエミの命日である2月13日前後に、東京都世田谷区の法徳寺にある墓を訪れていたという関係者の証言が紹介されている。

人目を避け、一人で墓に手を合わせていたという。

また、2014年11月19日の日刊スポーツも、高倉健が命日に毎年墓参りをして花を手向けていたと報じた。

この墓参りは本人が公に語った習慣ではなく、関係者の証言に基づく報道として伝えられている。

高倉健は江利チエミ以外と再婚しなかった

高倉健は江利チエミとの離婚後、再婚しなかった。

日刊スポーツによると、江利チエミは高倉健が生涯に一度だけ結婚した相手だった。

二人が結婚していた期間は約12年。離婚後はそれぞれの人生を歩んだものの、江利チエミは高倉健にとって唯一の正式な妻だった。

映画『鉄道員』と「テネシー・ワルツ」のつながり


1999年公開。高倉健が主人公の駅長・佐藤乙松を演じた作品。妻と娘を亡くした男の人生を描いた。

江利チエミとの関係を語る際、映画『鉄道員』で流れる「テネシー・ワルツ」に注目する人も多い。

「テネシー・ワルツ」は、江利チエミが1952年にデビューした際の代表曲であり、彼女の歌手人生を象徴する一曲だ。

文春写真館の記事では、映画『鉄道員』の劇中で高倉健が同曲を口ずさむ場面が紹介されている。また、同記事が引用する評伝では、曲の選択に高倉健自身が関わったと伝えられている。

ただし、この選曲について高倉健本人が江利チエミへの追悼の意味を明言したという記録とは区別する必要がある。

それでも、江利チエミの代表曲と高倉健の代表作が結びついていることは、二人の関係を振り返る際に印象深いエピソードとなっている。

【二人の死去と功績】江利チエミは1982年、高倉健は2014年に逝去


江利チエミ

1937年1月11日生まれ。1982年2月13日死去。享年45。



高倉健

1931年2月16日生まれ。2014年11月10日死去。享年83。

江利チエミの死因は脳出血と吐瀉物による窒息

江利チエミは1982年2月13日、東京都港区高輪の自宅マンションで亡くなった。

日刊スポーツやPRESIDENT Onlineの報道では、脳出血によって意識を失い、吐瀉物を誤嚥したことによる窒息が伝えられている。

45歳という若さだった。

葬儀が行われた2月16日は、高倉健の誕生日であり、二人の結婚記念日でもあった。偶然が重なったこの日付は、二人の人生を振り返る際にたびたび取り上げられている。

高倉健は2014年11月10日に83歳で死去

高倉健は2014年11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で亡くなった。

所属事務所の高倉プロモーションは11月18日に訃報を発表した。

2012年公開の映画『あなたへ』が遺作となり、2013年には文化勲章を受章していた。

日本映画を代表する俳優の死去は、国内外で大きく報じられた。

2026年も江利チエミの音楽は受け継がれている

江利チエミの評価は、元妻という肩書だけでは語り尽くせない。

キングレコードの公式サイトでは、2026年7月15日に「江利チエミ ベストセレクション」の発売情報が掲載されている。また、2026年1月には復刻ジャズレコードの試聴イベントも告知された。

ジャズ、ポップス、民謡、映画、舞台と幅広いジャンルに挑戦した彼女の音楽は、現在も音源の復刻や再発売を通じて聴き継がれている。

高倉健との結婚や離婚が注目される一方で、歌手・女優としての功績も改めて評価されるべき人物だ。

【江利チエミと高倉健】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:江利チエミと高倉健はいつ結婚しましたか?

1959年2月16日です。東京都千代田区の帝国ホテルで結婚式を挙げました。当時、高倉健は28歳、江利チエミは22歳でした。

Q2:江利チエミと高倉健の離婚理由は何ですか?

異父姉による預金の使い込みや借金、自宅の抵当設定などの金銭トラブルが大きな背景として報じられています。また、高倉健自身も1972年の手記で、仕事に打ち込みすぎて家庭を顧みられなかったことを振り返っています。

Q3:二人の間に子どもはいましたか?

二人に育った子どもはいません。1962年に江利チエミが妊娠しましたが、妊娠高血圧症候群が関係したと報道され、出産には至りませんでした。

Q4:高倉健は離婚後も江利チエミの墓参りをしていましたか?

女性自身や日刊スポーツは、関係者の証言として、高倉健が江利チエミの命日前後に墓参りを続けていたと報じています。

Q5:江利チエミと高倉健はいつ亡くなりましたか?

江利チエミは1982年2月13日に45歳で亡くなりました。高倉健は2014年11月10日に83歳で亡くなっています。

Q6:「テネシー・ワルツ」と高倉健にはどのような関係がありますか?

「テネシー・ワルツ」は江利チエミの1952年のデビュー曲です。高倉健主演の映画『鉄道員(ぽっぽや)』でも劇中に登場することから、二人の関係を思い起こさせる楽曲として知られています。

まとめ:江利チエミと高倉健の離婚は愛情だけでは説明できない

江利チエミと高倉健は、1956年の映画共演をきっかけに知り合い、1959年2月16日に結婚した。

しかし、1962年の妊娠と出産に至らなかった経験、異父姉をめぐる金銭トラブル、1970年の自宅火災、そして高倉健の仕事中心の生活など、複数の問題が重なり、1971年に離婚した。

離婚後、高倉健は再婚せず、江利チエミの墓参りを続けていたと報じられている。1972年の本人の手記には、仕事一途だった自分の生き方への反省も残されていた。

二人の離婚は、単純に愛情がなくなったから起きたものではなかった。

江利チエミは1982年に45歳で亡くなり、高倉健も2014年に83歳でこの世を去った。

二人の人生を振り返るとき、忘れてはならないのは、江利チエミが「高倉健の元妻」という存在にとどまらないことだ。「テネシー・ワルツ」をはじめとする数々の名曲を残し、映画や舞台でも活躍した昭和を代表するエンターテイナーだった。

2026年も復刻音源やベスト盤を通じて、その歌声は受け継がれている。二人の関係を知ることは、昭和の芸能史と、一人の歌手が歩んだ人生を改めて見つめ直すことにもつながる。