徳川慶喜の写真を年代別に検証|将軍時代の肖像から晩年像まで徹底解説

目次

2026年現在、徳川慶喜の写真を調べると、若い頃の凛々しい肖像から、軍服姿で写る幕末の写真、明治時代に撮影された晩年の姿まで、さまざまな画像を確認できます。なかでも注目されるのが、1867年にイギリス海軍のサットン大佐が撮影した肖像写真です。実際の慶喜の顔立ちや服装を伝える、歴史的価値の高い資料として知られています。

一方、明治時代の慶喜は、自らカメラを構えて風景や建物、人々を撮影する写真愛好家でもありました。写真に写る慶喜と、慶喜自身が撮影した写真は別の資料です。国立国会図書館、徳川ミュージアム、東京都写真美術館、茨城県立歴史館などの公開資料をたどりながら、撮影年代、撮影者、衣装、所蔵先を整理します。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

- 若い頃の写真: 1866~1867年の肖像写真には、衣冠姿、洋装、軍服姿、騎馬姿など複数のバリエーションがある。
- 有名な撮影者: 1867年3月、大坂で慶喜を撮影した人物としてF・W・サットン大佐の名前が記録されている。
- 晩年の写真: 徳川ミュージアムには1902年頃の肖像、静岡市歴史博物館には1908年の家族写真が登録されている。
- 本人の写真作品: 慶喜は明治時代に自ら撮影・現像を行い、静岡の風景や鉄道、寺社などを記録した。
- 本物を確認する方法: 撮影者、年代、材質、所蔵館、作品番号などの資料情報を照合することが重要。

【人物と写真の基礎知識】徳川慶喜はどんな人物だったのか

徳川慶喜写真

徳川慶喜は、1837年10月28日に生まれ、1913年11月22日に亡くなった江戸幕府第15代将軍です。父は水戸藩主の徳川斉昭。幼名を七郎麿といい、のちに一橋家を相続しました。

1866年に将軍職を継ぎ、翌1867年には大政奉還を行います。戊辰戦争後は謹慎生活を送り、明治2年(1869年)に謹慎を解かれた後も駿府で生活しました。1897年には東京へ移住しています。

こうした経歴は、国立国会図書館の電子展示会「近代日本人の肖像」に掲載された人物解説でも確認できます。

慶喜の写真を年代別に見るうえで重要なのは、政治の表舞台に立っていた時期と、明治時代に趣味を楽しみながら生活していた時期を区別することです。

前者には、将軍としての威厳や幕府の軍制改革を背景とした肖像が多く、後者には、落ち着いた洋装や日常生活を伝える写真が残されています。

また、徳川ミュージアムには「七郎麻呂様 七歳の肖像」という資料もあります。ただし、これは写真ではなく、絵師の内藤業昌が描いた肖像画です。

幼少期の慶喜の姿を知る手掛かりにはなりますが、写真と肖像画を混同しないことが大切です。

【若い頃の写真】将軍就任前後の肖像と軍服姿を比較

徳川慶喜写真

徳川慶喜の若い頃の写真を探すなら、まず注目したいのが慶応2年(1866年)から慶応3年(1867年)にかけて撮影された一連の肖像写真です。

これらの写真は、単に一人の人物の容貌を記録したものではありません。幕府の政治的立場や西洋文化との接触、軍制改革など、幕末の大きな変化を視覚的に伝えています。

文化庁の文化遺産データベースによると、一橋徳川家関係資料には写真14点が含まれています。

その内訳は、アンブロタイプ1点と鶏卵紙写真13点。このうち12点が、慶応2年から3年頃の徳川慶喜を写した写真です。

同資料群は2020年9月30日に国の重要文化財に指定されました。

1. 衣冠佩刀姿の写真

徳川慶喜写真

茨城県立歴史館が公開した一橋徳川家写真資料の出陳一覧には、慶応2年(1866年)9月の「徳川慶喜肖像写真(衣冠佩刀姿)」が記載されています。

衣冠を身につけ、刀を携えた姿は、伝統的な武家の権威を感じさせるものです。

当時の慶喜は将軍就任を目前に控えた政治の中心人物でした。写真に見られる装束は、幕府の最高権力者にふさわしい格式を表現しています。

2. 洋装・帽子姿の写真

同じ写真資料には「洋服着帽姿」と題された肖像もあります。

和装とは異なり、西洋式の衣服と帽子を組み合わせた姿です。

幕末の日本では、西洋式の軍制や外交制度を取り入れる動きが進んでいました。慶喜の洋装写真は、そうした時代の変化を人物の外見から読み取れる資料です。

3. 軍服姿の写真

慶喜の写真のなかでも検索需要が高いのが、軍服を着用した肖像です。

茨城県立歴史館の資料一覧には、次の2種類が記録されています。

- 徳川慶喜肖像写真(軍服姿)
- 徳川慶喜肖像写真(軍服騎馬姿)

前者は慶応2~3年(1866~1867年)、後者は慶応3年(1867年)の資料です。

騎馬姿の写真では、人物の顔だけでなく、乗馬や軍装を含めた全身の姿を確認できます。

ここで注意したいのは、軍服姿の写真とサットン大佐が撮影した肖像写真を、すべて同じ撮影作品として扱わないことです。撮影者や撮影時期は資料ごとに確認する必要があります。

【1867年の写真を撮影した人物】サットン大佐と慶喜の肖像

徳川慶喜の写真を語るうえで欠かせない人物が、F・W・サットン大佐です。

徳川ミュージアムの収蔵品データベースには、サットン大佐を撮影者とする「徳川慶喜公肖像写真」が登録されています。

撮影されたのは1867年3月、大坂での外交上の重要な出来事に関連する時期でした。

サットン大佐とは何者なのか

サットン大佐は、イギリス軍艦サーペント号の機関長として徳川ミュージアムの資料解説に登場する人物です。

1867年3月、慶喜は兵庫開港を決意し、英・仏・米・蘭の公使にその方針を伝えました。

その後、英国公使ハリー・パークスらとの会見が行われ、サットン大佐による慶喜の撮影につながります。

徳川ミュージアムの記録では、慶喜と英国公使らの会見後に撮影された肖像と、翌日の英国公使館付歩兵護衛隊第9連隊分遣隊を閲兵した際の写真が説明されています。

撮影日は3月27日なのか、28日なのか、29日なのか

ここには興味深い資料上の違いがあります。

文化庁の文化遺産データベースでは、サットン大佐撮影の「徳川慶喜公肖像写真」の制作年を1867年3月27日としています。

一方、徳川ミュージアムの関連画像アーカイブでは、別の作品番号に対応する写真の制作日を1867年3月28日と登録しています。

さらに、松戸市の戸定歴史館が公開する慶喜・昭武関係年表には、3月28日と29日の両日にサットンが慶喜を撮影した記録があります。

茨城県立歴史館の出陳一覧でも、サットン撮影の「羽織袴姿」は3月29日とされています。

つまり、サットンが撮影した慶喜の写真をすべて単一の撮影日でまとめるのは適切ではありません。複数の写真や撮影機会が存在し、それぞれの資料に異なる日付が付されているためです。

写真の材質にも歴史的価値がある

文化庁と徳川ミュージアムの公開情報によれば、該当する肖像写真は鶏卵紙印画に岩絵具で彩色したものです。

大きさは縦9.3センチ、横5.8センチ。

写真そのものに彩色が施されているため、単純な白黒写真とは異なる印象を受けます。

また、写真の裏面には「Stots Bashi, Tycoon of Japan」などの記載と、F.W. Suttonによる撮影を示す文字が残されていると説明されています。

この写真を基にした慶喜の肖像は、イギリスの新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』にも掲載されました。

幕末の日本を代表する政治家の姿が、海外の新聞を通じて紹介されていたことも、この資料の重要な特徴です。

【年代別比較】若い頃から晩年までの写真と所蔵先一覧

徳川慶喜の写真を探す際は、撮影年代だけでなく、写真の種類、撮影者、現在の所蔵先を組み合わせて調べると効率的です。

主な資料を整理すると、次のようになります。

時期・年代 写真・資料の特徴 撮影者・所蔵先
1866年9月 衣冠佩刀姿 一橋徳川家写真資料・茨城県立歴史館保管
1866~1867年 衣冠姿・洋装・帽子姿 一橋徳川家写真資料
1866~1867年 軍服姿 一橋徳川家写真資料
1867年 軍服騎馬姿 一橋徳川家写真資料
1867年3月27日 サットン大佐撮影の肖像 徳川ミュージアム
1867年3月28~29日 サットン撮影の関連肖像 徳川ミュージアム・松戸市戸定歴史館の関連記録
1868~1877年 鶏卵紙による徳川慶喜像 東京都写真美術館・撮影者不詳
1870~1880年 鶏卵紙による徳川慶喜の肖像 東京都写真美術館・撮影者不詳
1902年頃 徳川慶喜公肖像写真 徳川ミュージアム
1908年 徳川慶喜家族写真 静岡市歴史博物館

※年代は各所蔵機関の公開資料に基づくものです。撮影日が特定されていない資料については、登録された年代の範囲を記載しています。

どこで写真を確認できるのか

1. 国立国会図書館「近代日本人の肖像」

徳川慶喜の人物紹介と複数の肖像画像を確認できます。

生没年や将軍就任、大政奉還、明治時代の生活など、写真を理解するための基本情報を調べるのに適しています。

ただし、掲載されている肖像がすべて写真というわけではありません。画像の資料種別を確認する必要があります。

2. 徳川ミュージアム

慶喜本人の肖像写真を調べる際に、特に重要な所蔵先です。

サットン大佐撮影の肖像写真や1902年頃の肖像写真など、作品ごとの登録情報が公開されています。

撮影者、制作年代、材質、寸法などを確認できるため、写真の来歴を調べたい人に向いています。

3. 東京都写真美術館

東京都写真美術館の収蔵品検索には、徳川慶喜の肖像写真が複数登録されています。

例えば、作品番号10107450の「徳川慶喜像」は1868~1877年、作品番号10109331の「徳川慶喜」は1870~1880年の制作とされています。

いずれも撮影者は不詳で、技法は鶏卵紙です。

このように、幕末の写真と明治初期の写真を区別する際に役立ちます。

4. 茨城県立歴史館

国の重要文化財に指定された一橋徳川家関係資料の写真を調べる際に重要です。

2024年の開館50周年記念特別展「名品、ゾクゾク」の出陳資料一覧では、慶喜の衣冠姿、洋装、軍服、騎馬姿、サットン撮影の肖像などが個別に紹介されました。

写真だけでなく、撮影年代や資料名を比較できる点が特徴です。

5. 静岡市歴史博物館

1908年の「徳川慶喜家族写真」が収蔵資料データベースに登録されています。

慶喜が晩年を過ごした明治時代の姿を確認するための重要な資料です。

【カメラマンとしての徳川慶喜】自ら撮影した明治時代の写真

徳川慶喜には、写真を撮られる人物というだけでなく、自分で写真を撮影する人物という側面もありました。

将軍職を退き、政治の表舞台から距離を置いた明治時代、慶喜は写真を趣味の一つとして楽しんでいました。

写真好きだった慶喜の作品集

その活動を知るための代表的な資料が、1986年10月に朝日新聞社から刊行された写真集『将軍が撮った明治』です。

国立国会図書館サーチには、次の書誌情報が登録されています。

- 書名:将軍が撮った明治
- 写真:徳川慶喜
- 監修:徳川慶朝
- 出版社:朝日新聞社
- 発売年月:1986年10月
- ページ数:135ページ
- ISBN:9784022555595

朝日新聞出版の商品紹介によると、本書は慶喜の直系の孫が保存していた百数十枚の紙焼き写真から作品を選んで構成されています。

慶喜自身が撮影・現像した作品が収録されており、明治時代の風物や生活を伝える写真集です。

慶喜が撮影した写真には何が写っているのか

茨城県立歴史館の一橋徳川家写真資料の一覧には、次のような作品が記載されています。

- 安倍川鉄橋上リ列車進行中之図
- 三保神社鳥居前
- 清水湊橋ヨリ港口ヲ望ム之景
- 静岡浅間神社大拝殿
- 久能御山全図
- 臨済寺
- 静岡猫ハン

これらは明治20年代後半頃、つまり19世紀末頃の撮影作品です。

興味深いのは、政治的な事件や権力者の肖像ではなく、鉄道、港、神社、寺院、動物といった日常的な被写体が選ばれていることです。

そこには、幕府の将軍として歴史に名を残した人物とは異なる、写真愛好家としての慶喜の視線があります。

鉄道の走行風景を記録している点も見逃せません。近代化が進む明治の社会を、慶喜自身がカメラを通して残していたのです。

有名な肖像写真を慶喜本人が撮ったわけではない

ここは間違えやすいポイントです。

1867年のサットン大佐撮影の肖像は、サットンが撮影したものです。

一方、『将軍が撮った明治』に収録された写真は、慶喜自身が撮影した作品です。

つまり、慶喜の肖像写真と、慶喜が撮影した写真作品は、撮影者と資料の性質が異なります。

この区別を理解すると、慶喜の写真資料全体をより正確に把握できます。

【本物の写真を見分ける方法】撮影年代・材質・所蔵記録を確認

インターネットで徳川慶喜の写真を検索すると、同じ肖像が異なる年代で紹介されていたり、撮影者が不明の写真に特定の写真師の名前が付けられていたりすることがあります。

歴史写真の真偽を確認するときは、画像の見た目だけで判断しないことが重要です。

確認すべき5つのポイント

1. 所蔵館が明記されているか

最初に確認したいのは、写真を所蔵する博物館や美術館の名称です。

徳川ミュージアム、東京都写真美術館、茨城県立歴史館などの公式データベースに登録されている資料は、来歴を調べるための有力な手掛かりになります。

2. 撮影年代が具体的に示されているか

1866~1867年の将軍就任前後の写真と、1902年頃の晩年の肖像では、当然ながら容貌も衣装も異なります。

また、1868~1877年のような年代幅が記載されている場合、それは撮影日の確定を意味しません。

3. 撮影者が確認できるか

サットン大佐のように、撮影者が資料に明記されている作品もあります。

一方、東京都写真美術館の一部の徳川慶喜像は撮影者不詳です。

撮影者不詳という記録は、偽物という意味ではありません。現存資料から撮影者を特定できないという意味です。

4. 写真の技法や材質が一致しているか

幕末から明治初期の写真では、鶏卵紙が重要な手掛かりになります。

サットン大佐撮影の資料は、鶏卵紙印画に岩絵具で彩色された作品です。

こうした材質情報は、資料を特定する際の重要な比較材料になります。

5. 裏書きや作品番号が確認できるか

サットン撮影の写真には、裏面に撮影者や撮影地を示す文字が記されていると徳川ミュージアムが説明しています。

さらに、作品番号や登録番号を照合すれば、同じ写真の別名表記や関連資料を調べやすくなります。

なお、インターネットに掲載されている画像が本物の歴史写真を複製したものであっても、その画像データや印刷物自体が幕末当時のオリジナル写真というわけではありません。

原資料の真正性と、手元で見ている画像のオリジナル性は別々に考える必要があります。

【プロの結論】徳川慶喜の写真は年代と撮影者を分けて見る

徳川慶喜の写真を理解する最大のポイントは、単に顔立ちを比較するのではなく、写真が撮影された時代背景まで読み取ることです。

若い頃の写真には、衣冠姿、洋装、軍服姿、騎馬姿など、幕末の政治と軍制の変化が反映されています。

1867年のサットン大佐による撮影は、慶喜が外国公使と外交関係を築いていた時期の記録として重要です。

そして明治時代に入ると、慶喜自身がカメラを使い、静岡の風景や近代化する社会を記録するようになります。

1902年頃の肖像や1908年の家族写真は、将軍時代とは異なる晩年の姿を伝えています。

写真を探す目的によって、参考にする資料も変わります。

- 若い頃の顔を見たい人: 1866~1867年の一橋徳川家写真資料。
- 軍服姿を確認したい人: 茨城県立歴史館の重要文化財資料一覧。
- サットン大佐の撮影写真を調べたい人: 徳川ミュージアムの収蔵品データベース。
- 晩年の容貌を確認したい人: 1902年頃の肖像写真や1908年の家族写真。
- 慶喜自身の作品を見たい人: 写真集『将軍が撮った明治』。

写真を歴史資料として深く楽しみたいなら、国立国会図書館の人物紹介と各博物館の収蔵品データベースを併用する方法がおすすめです。


【徳川慶喜の写真】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:徳川慶喜の若い頃の写真は何年に撮影されたものですか?

A1:代表的な資料は1866~1867年の写真です。衣冠佩刀姿、洋装、帽子姿、軍服姿、騎馬姿など複数の肖像が残っています。特に1866年9月の衣冠佩刀姿は、茨城県立歴史館の資料一覧で撮影年代が確認できます。

Q2:徳川慶喜の有名な写真を撮影したのは誰ですか?

A2:1867年3月に大坂で撮影された肖像の撮影者として、イギリス海軍のサットン大佐(F・W・サットン)が記録されています。徳川ミュージアムと文化庁の文化遺産データベースで関連資料を確認できます。

Q3:徳川慶喜の晩年の写真は残っていますか?

A3:残っています。徳川ミュージアムには1902年頃の肖像写真が登録されており、静岡市歴史博物館には1908年の家族写真があります。

Q4:徳川慶喜は自分で写真を撮っていたのですか?

A4:はい。明治時代には写真撮影だけでなく現像も行っていました。朝日新聞社の写真集『将軍が撮った明治』には、慶喜が撮影した風景や明治の生活を伝える作品が収録されています。

Q5:徳川慶喜の写真は国立国会図書館で見られますか?

A5:国立国会図書館の「近代日本人の肖像」で慶喜の肖像画像を確認できます。また、写真集『将軍が撮った明治』の書誌情報も国立国会図書館サーチに登録されています。デジタル資料の閲覧には利用条件があるため、個別の公開状況を確認してください。

Q6:徳川慶喜の写真はすべて本物ですか?

A6:インターネット上の画像すべてが当時の原資料というわけではありません。所蔵館、作品番号、撮影年代、撮影者、材質などを照合することが大切です。また、撮影者不詳と記録された写真も存在します。


まとめ:徳川慶喜の写真から幕末と明治の姿を読み解く

徳川慶喜の写真は、将軍時代の威厳ある肖像から、明治時代の穏やかな日常、さらに本人が撮影した風景写真まで、多彩な記録が残されています。

特に重要なのは、次の3つの資料群です。

1. 1866~1867年の将軍時代の肖像写真:衣冠姿、洋装、軍服姿などを通じて幕末の慶喜を知ることができる。
2. サットン大佐撮影の1867年の写真:外交や閲兵に関連する場面を記録した歴史的資料。
3. 明治時代から晩年の写真:1902年頃の肖像、1908年の家族写真、慶喜自身が撮影した作品群。

2026年10月時点で、これらの資料を調べるための重要な窓口は、国立国会図書館、徳川ミュージアム、東京都写真美術館、茨城県立歴史館、静岡市歴史博物館です。

一枚の写真を年代、撮影者、衣装、所蔵先とともに見比べることで、最後の将軍としての徳川慶喜だけでなく、写真を愛し、明治という新しい時代を自ら記録した一人の人物としての姿も浮かび上がってきます。

写真は、徳川慶喜の容貌を伝えるだけでなく、幕末から明治へと移り変わる日本の歴史を映し出す貴重な一次資料なのです。

主な参照資料

- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」徳川慶喜
- 文化庁「文化遺産データベース」一橋徳川家関係資料
- 徳川ミュージアム収蔵品データベース
- 東京都写真美術館「収蔵品検索」
- 茨城県立歴史館「一橋徳川家写真資料 出陳一覧」
- 松戸市戸定歴史館「徳川慶喜・昭武関係年表」
- 国立国会図書館サーチ『将軍が撮った明治』
- 静岡市歴史博物館「徳川慶喜家族写真」

資料上の重要な補足: 1867年のサットン撮影写真は、文化庁の登録が3月27日、徳川ミュージアムの関連画像の登録が3月28日、茨城県立歴史館の出陳一覧が3月29日となっています。記事ではこの違いを隠さず、複数の写真・撮影記録を区別しています。