【出会いは1959年】デヴィ夫人とスカルノ大統領の馴れ初め
デヴィ夫人の本名は、根本七保子(ねもと・なおこ)。インドネシア名はラトナ・サリ・デヴィで、国際的にはDewi Sukarnoとして知られている。
1940年2月6日、東京生まれ。幼少期は戦争と貧困を経験し、母親と弟を支えるために若くして働き始めた。金融機関の千代田生命に勤務した後、赤坂の外国人客が訪れる高級クラブで働くようになった。
スカルノ大統領との運命的な出会い

二人が出会ったのは1959年6月。インドネシアの初代大統領だったスカルノが日本を訪問していた時期である。
インドネシア大統領公文書館の人物紹介によれば、スカルノは東京・赤坂のクラブ「コパカバーナ」を訪れ、そこで根本七保子と知り合った。公文書館の記録では、出会いの日は1959年6月16日とされている。
スカルノは当時58歳。デヴィ夫人は19歳だった。
その後、二人は手紙を交わし、スカルノからインドネシアへの招待を受ける。デヴィ夫人はインドネシアを訪問し、大統領との関係を深めていった。
2017年の日刊スポーツのインタビュー報道でも、デヴィ夫人自身が、映画を見に行くための待ち合わせ場所で偶然スカルノ一行と出会ったというエピソードを語っている。
単に容姿が評価されたという説明だけでは、二人の関係を十分に理解できない。2026年のジャカルタ日報のインタビューでも、夫人はスカルノと英語で意思疎通できたことが結婚につながった要素の一つだったと振り返っている。
つまり、言語能力や知的な会話も、二人の関係を築くうえで大切な役割を果たしていた。
1959年結婚説と1962年結婚説、どちらが正しい?
検索すると「1959年に結婚」とするプロフィールが見つかる一方、「1962年に結婚」と記載する資料も多い。
この違いには注意が必要だ。
- 1959年6月:スカルノ大統領と出会った時期。
- 1962年3月3日:インドネシア大統領公文書館が有力と判断する婚姻日。
- 1964年5月:別の資料に記載されている正式婚姻の日付。
日刊スポーツの2014年の記事では、当時の公式ホームページに基づき1959年を結婚年として紹介していた。一方、講談社の『日本人名大辞典』や『女性自身』は1962年を結婚年としている。
さらにインドネシアの大統領公文書館も、1962年3月3日と1964年5月という二つの説を紹介し、前者が正しい可能性が高いとしている。
したがって、1959年は出会いの年、結婚については1962年説が有力という整理が、現存する資料を比較した場合には妥当である。
【第3夫人とは?】スカルノ大統領の歴代夫人と二人の関係
デヴィ夫人を調べると、必ず登場するのが「第三夫人」という肩書きだ。
スカルノ大統領はインドネシア独立運動を率い、1945年に独立を宣言した初代大統領である。政治家としての活動だけでなく、複数の女性との婚姻関係でも知られている。
代表的な妻として名前が挙がるのが、ファトマワティ、ハルティニ、そしてデヴィ夫人だ。
ただし、婚姻関係の数え方は資料によって異なる。日本の講談社『日本人名大辞典』ではデヴィ夫人を第3夫人としているが、インドネシアの大統領公文書館の人物紹介では第5夫人と記載されている。
このため、第3夫人という呼び方は日本で広く使われている紹介上の肩書きとして理解しておく必要がある。
スカルノ大統領を取り巻いた主な女性たち
| 人物 | スカルノとの関係 | 主な特徴 |
|---|---|---|
| ファトマワティ | 妻 | メガワティら5人の子どもの母。独立時の国旗を縫製した人物としても知られる |
| ハルティニ | 妻 | スカルノの後半生に寄り添い、最晩年にも看病した人物 |
| デヴィ・スカルノ | 妻 | 日本出身。旧名は根本七保子。娘カルティカをもうけた |
| カルティカ・サリ・デヴィ | デヴィ夫人との娘 | スカルノの娘。デヴィ夫人の2026年のインタビューにも登場する |
出典:インドネシア国立図書館、大統領公文書館の人物資料。上記は関係を理解するための主要人物であり、スカルノの全婚姻関係を網羅した一覧ではない。
ここで注目したいのは、デヴィ夫人が単なる外国出身の大統領夫人ではなかったことだ。
彼女は日本生まれでありながら、インドネシア国籍を取得し、スカルノ政権の時代に国際的な社交や外交の場に身を置いた。
一方、ファトマワティやハルティニなど、スカルノを長年支えてきた女性たちも存在した。大統領の妻という肩書きは一つでも、その立場や役割はそれぞれ異なっていたのである。
【1965年の政変】スカルノ大統領の失脚とデヴィ夫人の亡命
二人の人生を大きく変えたのが、1965年9月30日に発生したインドネシアの政治危機だった。
いわゆる「9・30事件」である。
1965年9月30日事件とは何だったのか
1965年10月1日、軍内部の一部勢力がジャカルタの主要施設を占拠し、軍幹部6人が殺害された。
その後、スハルト将軍が軍を掌握し、国内の政治状況は急速に変化していく。
当時のスカルノ大統領は、国内の政治勢力や軍との対立を抱えながら、政権の維持を試みていた。
しかし、権力は徐々にスハルト側へ移っていった。
米国務省のインドネシア情勢に関する記録によれば、1966年3月にはスカルノが重要な政治・軍事権限をスハルトに移譲し、1967年3月にはスハルトが暫定大統領に任命された。
スカルノは大統領の肩書きを失うだけでなく、政治的な影響力も急速に失っていった。
デヴィ夫人が日本を経てフランスへ渡った理由
政変が起きた当時、デヴィ夫人は妊娠していた。
FRIDAYデジタルが2019年に掲載した経歴記事によれば、政情が悪化するなかで身の安全を守るためにインドネシアを離れ、日本で出産することになった。
出産後、スカルノの失脚が進み、インドネシアへの再入国も難しくなった。そこで娘を連れてフランスへ渡った。
この亡命は、単なる海外移住ではない。
それまで大統領夫人として享受していた公的な立場、政治的な後ろ盾、インドネシアでの生活基盤を失い、新しい国で人生を立て直さなければならない状況だった。
パリへの亡命は1967年?1970年?
ここも資料によって違いがある。
- 株式会社オフィス デヴィ スカルノの公式プロフィール:1967年にパリへ亡命。
- 金融広報中央委員会のインタビュー記事:1970年に娘とともにパリへ亡命。
- FRIDAYデジタル:1965年の政変後、日本を経てフランスへ移ったと紹介。
これらの資料から確認できる共通点は、1965年の政変をきっかけに日本を経由し、最終的にパリで生活することになったという経緯だ。
パリに移った年については、最初の出国とその後の生活拠点の移動を区別していないプロフィールもあるため、1967年と1970年のどちらか一方だけを絶対的な亡命日として扱うのは適切ではない。
【1970年6月21日】スカルノ大統領の死去とデヴィ夫人のその後
スカルノ大統領は、政権を失った後もインドネシア国内で生活していた。
晩年は事実上の軟禁状態に置かれ、健康状態も悪化していた。
そして、1970年6月21日、ジャカルタの陸軍中央病院で亡くなった。享年69歳だった。
この日付はインドネシア国立図書館の大統領略歴や大統領公文書館の記録でも確認できる。
最期に会うためインドネシアへ戻ったデヴィ夫人
FRIDAYデジタルの記事では、フランスにいたデヴィ夫人が、スカルノの危篤を知ってインドネシアへ戻ったエピソードが紹介されている。
当時、インドネシアへの入国は政治的に難しい状況だったという。
それでも夫人は大統領に会うために病院へ向かい、その翌朝、スカルノは亡くなったと報じられている。
この出来事は、政治的な立場を失った後も、二人の間に個人的な結びつきが残っていたことを示すエピソードだ。
大統領夫人という肩書きを失った後
デヴィ夫人は2018年の『女性自身』のインタビューで、大統領夫人ではなくなったことを実感した瞬間について語っている。
飛行機を降りたとき、あの赤いじゅうたんがなかった。
それまで海外の空港では、赤いじゅうたんと大勢の出迎えが用意されていた。しかし、亡命後はそうした待遇がなくなった。
夫人にとって、それは政治的な肩書きが失われたことを実感する出来事だった。
華やかな生活から突然離れ、自分自身の力で生きていく必要が生じたのである。
スカルノ大統領の遺産で暮らしていたという誤解
2026年9月のジャカルタ日報のインタビューで、デヴィ夫人はスカルノの遺産についても言及した。
本人の説明では、スカルノから遺産を受け取って生活していたわけではないという。
晩年のスカルノは自由に行動できる状況ではなく、娘の出産で日本に戻っていた夫人との連絡も、体調の悪化とともに少なくなっていった。
当初は毎月届いていた手紙が、数か月に一度、半年に一度、さらに一年に一度という具合に減っていったと振り返っている。
そのため、夫人は自分と娘の生活を支えるために新しい仕事を始める必要があった。
【知られざる実業家時代】1980年代のデヴィ夫人は何をしていた?
デヴィ夫人の経歴で、テレビではあまり語られないのが1980年代の実業家時代だ。
2026年9月11日付のジャカルタ日報は、本人へのインタビューを通じて、この時期の仕事を詳しく紹介した。
同記事によれば、夫人は1980年ごろにインドネシアへ戻り、石油・ガスプラント関連の会社を設立して事業を始めた。
石油・ガスプラント関連企業を設立
夫人が取り組んだのは、社交界や芸能活動とはまったく異なる産業分野だった。
アメリカ、イギリス、フランスなどの外資系企業のインドネシアにおける代理人として、プラント建設関連の案件に関わったという。
また、日本企業の日揮(JGC)や千代田化工建設が手がける大型プロジェクトにも参加したと語っている。
主な業務は、建設プロジェクトに必要な機械設備を供給することだった。
単に会社を所有するだけではなく、海外企業と日本企業、インドネシアの建設事業を結ぶビジネスを展開していたのである。
2026年インタビューで明かされた驚きの事業規模
ジャカルタ日報のインタビューでは、当時のプロジェクトについて具体的な数字も明かされた。
| 項目 | 2026年インタビューで語られた内容 |
|---|---|
| 主な事業 | 石油・ガスプラント関連 |
| 取引先 | 米国・英国・フランスなどの外資系企業 |
| 日本企業との関係 | 日揮、千代田化工建設などのプロジェクトに参加 |
| プロジェクト規模 | 本人の説明では約1,500億円に上る案件もあった |
| 重機の価格 | 1機45億~60億円の例 |
| 入札書類の作成費 | 約2億円と本人が回想 |
| 従業員数 | 約20人 |
| 勤務時間 | 朝7時ごろから夜10時ごろまで |
特に興味深いのは、本人が当時の仕事について語った次の言葉だ。
「自分で生きていくために、ビジネスをゼロから勉強して始めざるを得なかった」
この発言には、スカルノの死後に経済的な自立を迫られた事情が表れている。
本人によれば、ビジネス経験はほとんどなかった。しかし、父親が建設業に携わっていたことや、スカルノと過ごした時期に港湾・工場建設などの話を身近に聞いていた経験が、仕事への理解につながったという。
スハルト政権下で事業を続ける難しさ
実業家時代には、政治的な困難もあった。
スハルト政権下では旧スカルノ派と見なされた人々が厳しい立場に置かれていたと、夫人は2026年のインタビューで振り返っている。
そのような環境で、スカルノ元大統領の妻だったデヴィ夫人が事業を行うことは容易ではなかった。
本人は、日本企業の関係者から支援を受けたことに感謝しているとも語った。
当時は従業員が出社する1時間前に職場へ行き、社員が帰った後も仕事を続けていたという。ジャカルタ中心部のビルのワンフロアを使い、約20人の従業員と事業を進めていた。
このエピソードは、テレビで見せる華やかな姿だけでは理解できない、もう一つのデヴィ夫人の経歴である。
【東洋の真珠から国際文化人へ】デヴィ夫人の現在・2026年最新活動
2026年10月31日現在、デヴィ夫人は86歳。
スカルノ大統領の妻という歴史的な肩書きを持ちながら、日本を活動拠点としてテレビ、講演、文化活動、慈善活動などに携わっている。
「東洋の真珠」と呼ばれたパリの社交界
デヴィ夫人が「東洋の真珠」と呼ばれるようになったのは、フランス・パリを中心としたヨーロッパの社交界で活躍したことが背景にある。
大統領夫人としての国際的な経験に加え、華やかなファッションや宝飾品、独特の存在感が評価された。
本人も2019年のインタビューで、パリの社交界には名声、地位、財力、個性が求められると語っている。
この呼び名は単なる芸能界のキャッチフレーズではなく、国際的な社交界で築いた存在感を象徴するものだ。
ニューヨーク時代と国連環境計画での活動
1980年代のインドネシアでの事業活動を経て、デヴィ夫人は1990年代初めにニューヨークへ移住した。
公式プロフィールでは1990年、講談社の人名辞典では1991年と記載されている。
ニューヨークでは国連環境計画(UNEP)の特別顧問として活動した経歴が紹介されている。
この時期には、日本のテレビ番組から出演依頼を受けるようになり、国際文化人としての活動と芸能活動が並行して進んでいった。
金融広報中央委員会のインタビューでは、2000年前後から日本のテレビ出演が増えた経緯についても本人が説明している。
2026年8月17日、インドネシア独立81周年式典に出席
2026年のデヴィ夫人の動向で注目されたのが、インドネシア訪問だ。
ジャカルタ日報の2026年9月11日付インタビューによれば、夫人は8月17日のインドネシア独立81周年記念式典に招待され、ジャカルタのムルデカ宮殿を訪れた。
宮殿での式典出席は約15年ぶりだったという。
当日はインドネシアの伝統衣装クバヤを着用し、インドネシアの閣僚や各国外交官らと同じエリアで式典に参列した。
また、現地の友人との再会も訪問の目的の一つだったと話している。
1960年代に知り合った友人の多くはすでに亡くなり、現在親しくしている人々の多くは1980年代以降、実業家として活動していた時期に知り合った人たちだという。
60年以上にわたってインドネシアとの関係が続いていることを示す出来事だった。
2026年現在の主な活動
株式会社オフィス デヴィ スカルノの公式事業紹介では、現在の活動として次の分野が掲載されている。
- タレント活動: テレビ番組などへの出演。
- 講演・コメンテーター: 国際経験を生かした講演や意見発信。
- 文化活動: 王侯貴族や国際社交界に関する文化情報の発信。
- 雑誌編集: 「POINT DE VUE JAPON」の編集長。
- 慈善活動: アースエイド・ソサエティを通じた国際的な活動。
また、2026年9月のインタビューでは、インドネシアでの事業経営からはすでに退いていると本人が説明している。
現在の活動の中心は日本であり、芸能活動だけに限定されない幅広いものとなっている。
【スカルノ大統領とデヴィ夫人】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:デヴィ夫人とスカルノ大統領は何歳差だった?
A1:スカルノ大統領は1901年6月6日生まれ、デヴィ夫人は1940年2月6日生まれ。年齢差は約38歳8か月で、約39歳差だった。
Q2:デヴィ夫人はスカルノ大統領の何番目の妻?
A2:日本の講談社『日本人名大辞典』などでは第3夫人と紹介されている。一方、インドネシアの大統領公文書館では第5夫人と記載されており、資料によって数え方が異なる。
Q3:デヴィ夫人は1959年にスカルノ大統領と結婚した?
A3:1959年は二人が出会った年として確認できる。結婚年は資料に違いがあるが、1962年説が有力である。
Q4:スカルノ大統領はいつ亡くなった?
A4:1970年6月21日。ジャカルタの陸軍中央病院で亡くなった。享年69歳だった。
Q5:デヴィ夫人が亡命した国はどこ?
A5:フランスである。1965年の政変後、日本を経由して娘とともにパリへ移った。亡命の年はプロフィールによって1967年と1970年の違いがある。
Q6:デヴィ夫人はスカルノ大統領の遺産で生活していた?
A6:2026年9月のジャカルタ日報のインタビューで、本人はスカルノから遺産を受け取っていないと説明している。1980年代にはインドネシアで石油・ガスプラント関連の事業を始め、自らの力で生活基盤を築いたと語っている。
Q7:2026年現在のデヴィ夫人は何をしている?
A7:86歳の現在も日本を拠点に、テレビ出演、講演、文化活動、慈善活動などに携わっている。2026年8月にはインドネシア独立81周年記念式典にも出席した。
まとめ:スカルノ大統領との結婚だけでは語れないデヴィ夫人の人生
スカルノ大統領とデヴィ夫人の関係は、1959年の出会いから始まり、1960年代のインドネシア政変、亡命、1970年の死別へと続いた。デヴィ夫人は日本出身の若い女性から大統領夫人となり、国際的な社交界で「東洋の真珠」と称される存在になった。
しかし、彼女の人生は大統領夫人という肩書きだけで説明できない。スカルノの死後には自立を迫られ、1980年代には石油・ガスプラント関連の会社を設立。海外企業や日本企業のプロジェクトに携わり、約20人の従業員を抱える事業を運営した。
2026年9月のジャカルタ日報のインタビューは、これまで華やかなテレビ出演の陰に隠れていた実業家時代を知るうえで貴重な記録となった。インドネシア独立81周年式典への出席も、スカルノ大統領との歴史的な関係が現在まで続いていることを感じさせる。
【プロの結論】デヴィ夫人の経歴を理解する3つの視点
1. 大統領夫人としての歴史的役割: スカルノ政権とインドネシアの政治史を背景に理解する。
2. 亡命後の自立と実業家としての経験: 1980年代の事業活動を知ることで、華やかな社交界のイメージだけでは見えない経歴が浮かび上がる。
3. 2026年現在の国際的なつながり: 日本での芸能・文化活動と、インドネシアとの長年の交流を切り離さずに見る。
デヴィ夫人の人生を調べる際は、1959年の出会いと1962年の結婚、1965年の政変と亡命、1970年の死去という歴史的な節目を押さえることが大切だ。そのうえで、2026年の本人インタビューを読むと、単なる元大統領夫人ではない、一人の女性としての挑戦と自立の歩みが見えてくる。
主な参照資料:インドネシア大統領公文書館、インドネシア国立図書館、株式会社オフィス デヴィ スカルノ、講談社『日本人名大辞典』、日刊スポーツ、FRIDAYデジタル、女性自身、金融広報中央委員会、ジャカルタ日報(2026年9月11日付インタビュー)。