聖徳太子の別名一覧!厩戸皇子・豊聡耳の由来と「聖徳太子」の名前が成立した歴史を徹底解説
聖徳太子には、「厩戸皇子(うまやどのみこ)」「厩戸王(うまやとおう)」「豊聡耳(とよとみみ)」「上宮太子(じょうぐうたいし)」など、複数の呼び名があります。実は、現在広く知られている「聖徳太子」という名称も、生前から使われていた名前ではありません。後世の人々が、その人物の功績や徳をたたえて用いるようになった呼称です。
その手がかりとなるのが、712年成立の『古事記』、720年成立の『日本書紀』、751年成立の漢詩集『懐風藻』、そして『上宮聖徳法王帝説』です。それぞれの史料を比較すると、厩戸という名前の由来から、豊聡耳の逸話、「聖徳太子」という称号が広まった経緯まで見えてきます。2026年現在の歴史研究や公的な解説資料も踏まえ、別名の意味と成立時期を整理します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 別名:厩戸皇子・厩戸王・豊聡耳・上宮王・上宮太子などが代表的な呼称。
- 生前の名前:一般に厩戸王と呼ばれるが、古代史料には厩戸豊聡耳皇子など複数の表記が残る。
- 聖徳太子の成立:「聖徳太子」という呼称は没後に成立し、751年の『懐風藻』序文が代表的な初出史料とされる。
【一覧】聖徳太子の別名は何種類?代表的な呼び方と読み方

聖徳太子の別名は、一つの名前を異なる漢字で表しただけではありません。出生に関する伝承、優れた知性を表す異名、居住した宮殿に由来する呼称、仏教的な尊称など、それぞれ異なる背景があります。
代表的な呼称を整理すると、次のようになります。
1. 厩戸皇子(うまやどのみこ)
厩戸皇子は、聖徳太子を指す代表的な古代史料上の呼称です。
『日本書紀』では「厩戸豊聡耳皇子」と記されています。一般的には、厩戸という名前を持つ皇族の人物を表す呼び方として理解されています。
なお、「皇子」は皇族の男子を示す称号です。現代の研究では、当時の政治制度や称号の成立時期を考慮し、「厩戸王」という表記を採用する場合もあります。
2. 厩戸王(うまやとおう)
厩戸王は、歴史研究や現代の歴史教育で使用される呼称です。
「聖徳太子」という後世の尊称や、「皇子」という称号をそのまま生前の正式な呼称とみなさないため、人物を比較的中立的に表現する目的で使われています。
つまり、厩戸王と厩戸皇子は別人ではありません。基本的には同じ人物を指し、呼び方の背景が異なります。
3. 豊聡耳(とよとみみ)
豊聡耳は、聖徳太子の優れた知性や聴覚能力を象徴する呼称です。
『日本書紀』には、成長した厩戸皇子が一度に10人の訴えを聞き、それぞれの内容を間違えずに理解したという逸話が記されています。
この伝承から、非常に聡明で、人々の話を正確に聞き分けられる人物というイメージが形成されました。「豊聡耳」は単なる名前というより、優れた能力を表現する異名として理解すると分かりやすいでしょう。
4. 上宮王(かみつみやおう)
上宮王は、厩戸皇子に関係する宮殿の名称に由来する呼び方です。
『日本書紀』の推古天皇元年の記事には、用明天皇が皇子を宮の南にある上殿に住まわせたことが記されています。この伝承と結び付いて「上宮」という呼称が使われるようになりました。
5. 上宮太子(じょうぐうたいし)
上宮太子も、厩戸皇子を指す代表的な別称です。
「上宮」と「太子」を組み合わせた呼び方で、『日本書紀』に登場する「上宮厩戸豊聡耳太子」という長い名称にも含まれています。
6. 上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ)
これは『日本書紀』の推古天皇元年の記事に登場する、複数の要素を組み合わせた呼称です。
「上宮」「厩戸」「豊聡耳」「太子」という要素が一つになっており、人物の居住場所、名前、伝承上の特徴、身分を表しています。
7. 上宮聖徳法王(かみつみやのしょうとくのりのおおきみ)
『上宮聖徳法王帝説』に関係する呼称です。
「聖徳」は優れた徳を持つ人物への賛美、「法王」は仏教に関係する尊称として理解できます。厩戸皇子が後世に仏教の重要人物として尊崇されていった歴史を反映する名称です。
このほか、『日本書紀』の用明天皇紀には「豊耳聡聖徳」「豊聡耳法大王」「法大王」といった異なる表記も見られます。
呼称の整理には『日本書紀』の原文や新纂浄土宗大辞典の「聖徳太子」「上宮聖徳法王帝説」の項目が参考になります。
【記紀を比較】古事記と日本書紀に記された聖徳太子の名前
聖徳太子の名前を調べるうえで、特に重要なのが『古事記』と『日本書紀』です。
どちらも古代日本を知るための基本史料ですが、成立した時期や編集の目的が異なります。厩戸皇子の呼称を比較すると、後世の一般的な名前とは違う表現が使われていることが分かります。
『古事記』に記された「上宮之厩戸豊聡耳命」
『古事記』は、和銅5年(712年)に成立した日本最古の現存する歴史書です。太安万侶が編纂し、神代から推古天皇の時代までを記録しています。
用明天皇の皇子に関する記述では、「上宮之厩戸豊聡耳命」という名称が登場します。
この名称は、次のように分けて考えると理解しやすくなります。
- 上宮之:上宮に関係する人物であること。
- 厩戸:人物を特定する名前の要素。
- 豊聡耳:優れた知性や聡明さを表す呼称。
- 命:神や皇族などに用いられる尊称。
注目したいのは、『古事記』では一般に知られる「聖徳太子」という名称ではなく、厩戸と豊聡耳を含む呼び方が採用されていることです。
『日本書紀』に記された「上宮厩戸豊聡耳太子」
『日本書紀』は養老4年(720年)に完成した官撰の歴史書です。推古天皇元年(593年)の記事には、厩戸豊聡耳皇子を皇太子に立てたという記述があります。
さらに、同じ記事の後半には、父である用明天皇が皇子を宮の南の上殿に住まわせたため、「上宮厩戸豊聡耳太子」と呼んだという説明があります。
この部分は、上宮という別名の由来を知るうえでも重要です。
また、同じ記事には、母の穴穂部間人皇女が宮中を巡察していた際、馬官の厩戸に至り、そこで出産したという伝承も記されています。
生まれながらに言葉を話し、聖なる知恵を備えていたという説明も続きます。厩戸と豊聡耳という呼称に、それぞれの由来を結び付ける構成になっています。
このように、『日本書紀』は名前だけでなく、その名前が生まれたとされる背景まで伝えている点が特徴です。
なお、これらは720年に完成した史書に記された伝承であり、593年当時の出来事を同時代の記録で直接確認できるという意味ではありません。
『古事記』と『日本書紀』の成立年代は、国文学研究資料館や国立公文書館の古典文学史・歴史資料の解説でも確認できます。
【名前の由来】厩戸・豊聡耳・上宮にはどんな意味がある?
聖徳太子の別名が多い理由は、それぞれの呼称が異なる特徴や伝承に結び付いているためです。ここでは、特に検索されることの多い3つの名称について、由来を詳しく見ていきます。
厩戸皇子の名前は馬小屋の前で生まれたことが由来?
最も有名なのは、母の穴穂部間人皇女が馬小屋の戸の前で出産したという伝承です。
『日本書紀』によれば、皇女は宮中の各部署を巡察していました。馬を管理する役所に到着したとき、厩の戸のところで突然出産したとされています。
この出来事から「厩戸」という名前が付けられたというのが、広く知られている説明です。
ただし、厩戸の由来については別の考え方もあります。出生地周辺の地名に由来するという説などです。奈良県の公式解説でも、厩舎の前で生まれたという伝承と地名に由来する可能性の両方が紹介されています。
したがって、馬小屋で生まれたという話は『日本書紀』に記された有名な出生伝承ですが、名前の実際の成立事情まで確定したわけではありません。
豊聡耳は10人の話を同時に聞き分けた伝説に由来
豊聡耳の由来として知られるのが、一度に10人の訴えを聞き分けたという逸話です。
『日本書紀』では、厩戸皇子が成長した後、10人の訴えを一度に聞いても誤ることなく判断できたと伝えています。
この逸話は、単に耳がよかったという意味ではありません。多くの人の話を聞き、内容を理解し、適切に判断できるほど優れた人物だったという評価を表現しています。
ただし、10人の話を同時に聞いたという出来事を、現代的な能力測定のように受け取ることはできません。人物の聡明さを象徴する伝承として理解するのが適切です。
上宮太子は宮殿の居住場所に由来する
上宮という名称は、用明天皇が厩戸皇子を宮の南にある上殿に住まわせたという『日本書紀』の記事に結び付いています。
つまり、豊聡耳が人物の能力を表す呼称であるのに対し、上宮は居住場所や宮廷との関係を示す呼称です。
同じ人物でも、どのような特徴に注目するかによって名称が変わっていることが分かります。
聖徳は優れた徳をたたえる尊称
「聖徳」は、聖なる徳や優れた人格を表す言葉です。
厩戸皇子の死後、その政治的な功績や仏教への貢献を評価する人々によって、賛美を込めた呼称として使われるようになりました。
「聖徳太子」は、出生時の名前をそのまま残したものではなく、後世の人物評価や信仰と深く結び付いた名称なのです。
【史料と年表】聖徳太子という称号はいつから使われた?
「聖徳太子」という名前の成立時期を考える際には、厩戸皇子の生前と没後を分ける必要があります。
厩戸皇子は一般に574年に生まれ、622年に亡くなったとされています。しかし、現在知られている主要な史料に「聖徳太子」という呼称が現れるのは、没後のことです。
特に注目されるのが、法起寺塔露盤銘に関する伝承と、751年成立の『懐風藻』です。
| 年代 | 史料・出来事 | 名前に関する内容 |
|---|---|---|
| 574年 | 厩戸皇子の誕生 | 一般に伝えられる生年。厩戸という呼称に関する出生伝承がある。 |
| 622年 | 厩戸皇子の死去 | 後世の尊称「聖徳太子」が成立する前の時期。 |
| 706年 | 法起寺塔露盤銘の伝承 | 「上宮太子聖徳皇」という文言が伝わる。ただし、銘文の成立や信頼性には研究上の議論がある。 |
| 712年 | 『古事記』成立 | 「上宮之厩戸豊聡耳命」と記される。 |
| 720年 | 『日本書紀』完成 | 「厩戸豊聡耳皇子」「上宮厩戸豊聡耳太子」などの呼称が登場する。 |
| 751年 | 『懐風藻』成立 | 序文に「聖徳太子」の名称が見られるとされる。一般に重要な初出史料として扱われる。 |
| 平安中期 | 『上宮聖徳法王帝説』の現存形態が成立 | 聖徳太子の系譜や事績、仏教関係の記録などが集成される。 |
706年の法起寺塔露盤銘は最初の「聖徳」の記録なのか
法起寺塔露盤銘には、「上宮太子聖徳皇」という文言があったと伝えられています。
この銘文が示すとされる年代は慶雲3年(706年)です。仮にこの伝承をそのまま認めれば、『懐風藻』より早い時期に「聖徳」という表現が使用されていたことになります。
しかし、ここには史料上の問題があります。法起寺の当初の露盤は現存せず、銘文は後世の『聖徳太子伝私記』などに引用された形で伝わっています。その成立や真正性については、研究者の間で検討が続いてきました。
この問題は、法起寺塔露盤銘文を研究した會津八一や大山誠一らの研究にも関係しています。
そのため、706年を「聖徳太子」という名称の確実な初出年と断定するのは慎重であるべきです。「聖徳」という語の早い用例候補と、751年の『懐風藻』に見える「聖徳太子」という名称は、分けて理解する必要があります。
751年の懐風藻が重要な理由
『懐風藻』は、天平勝宝3年(751年)に成立した現存する日本最古の漢詩集です。中国文学の影響を受けた漢詩約120首を収めており、当時の宮廷文化や知識人の交流を知るための重要な資料です。
この作品の序文には「聖徳太子」という名称が登場します。
厩戸皇子の没年とされる622年から129年後に当たるため、生前の呼び名ではなく、没後に形成された尊称であることを考える重要な手がかりになります。
国文学研究資料館の『懐風藻』解説や、国立国会図書館のジャパンサーチでも、751年成立の『懐風藻』序文が「聖徳太子」という名称の初見として紹介されています。
【違いを比較】聖徳太子と厩戸王は同じ人物?生前は何と呼ばれた?
「聖徳太子」と「厩戸王」は別人なのでしょうか。
答えは、基本的に同じ人物を指す呼称です。ただし、名前が使われた時期や歴史的な意味合いは異なります。
聖徳太子と厩戸王の違い
両者の違いを簡単に整理すると、次のようになります。
- 聖徳太子:没後に広まった、功績や徳をたたえる尊称。
- 厩戸王:生前の人物を指す際に、現代の歴史研究で使われる中立的な呼称。
- 厩戸皇子:『日本書紀』などの古代史料に見られる呼称。
つまり、名称の違いは人物の違いではなく、史料の表現や歴史的な位置付けの違いによるものです。
厩戸王という表記が使われるようになった理由
歴史教科書で「厩戸王」という表記が採用されるようになった背景には、古代の政治制度や称号に関する研究があります。
「聖徳太子」という名称は没後の尊称であり、「太子」は皇太子を意味する言葉です。しかし、厩戸皇子が生きていた時代に、後世と同じ意味での天皇や皇太子という制度・称号が成立していたのかについては、慎重な検討が必要とされています。
そこで、特定の称号を生前の正式名称として断定しないために、「厩戸王」という表記が研究や教科書で使われるようになりました。
2002年度検定版の山川出版社『詳説日本史』では「厩戸王(聖徳太子)」という表記が採用されたことが知られています。
また、2017年の学習指導要領改訂をめぐっても、文部科学省の国会答弁で「聖徳太子」と「厩戸王」の表記が議論されました。最終的には、従来の知名度と史料上の表現を両立させる形で、古事記や日本書紀に見える呼称を学ぶことが重視されました。
帝国書院の歴史資料でも、厩戸王という表記が使用される背景として、没後の尊称と生前の呼称を区別する歴史研究の成果が説明されています。
聖徳太子は生前、実際には何と呼ばれていた?
ここは誤解されやすい部分です。
厩戸王という呼称は、現在の歴史研究で生前の人物を指す際に広く使われています。しかし、当時の人々が日常会話で具体的にどの名前を使っていたのかまで、確実に分かっているわけではありません。
『古事記』や『日本書紀』は厩戸皇子の没後に編纂された史書です。そのため、記載された名称が、そのまま生前の人々の会話で使われていたと断定することはできません。
歴史的に重要なのは、「聖徳太子」という呼称が後世の評価によって定着した一方、厩戸という名前を含む呼称が古代史料に残されているという点です。
【史料を深掘り】上宮聖徳法王帝説と懐風藻が伝える人物像
聖徳太子の名前の成立を理解するには、『古事記』『日本書紀』だけでなく、『上宮聖徳法王帝説』や『懐風藻』も重要です。
これらの史料は、単なる名前の一覧ではなく、厩戸皇子に対する後世の評価や、仏教を中心とした人物像の形成を知る手がかりになります。
上宮聖徳法王帝説とは何か
『上宮聖徳法王帝説』は、聖徳太子に関する系譜、事績、金石文などを集めた一巻の記録です。編者は明らかになっておらず、現在の形になったのは平安中期と考えられています。
この史料の特徴は、太子の伝記だけでなく、法隆寺に関係する仏像の銘文や天寿国繡帳の記録なども収録していることです。
また、『日本書紀』とは異なる伝承も含まれており、厩戸皇子の歴史的な人物像を検討するうえで欠かせない史料の一つです。
現在知られる知恩院所蔵の写本は国宝で、現存最古の写本として知られています。紙背の年紀から、1078年以前に書写されたものとされています。
なお、「上宮聖徳法王帝説」は書物の題名です。「上宮聖徳法王」は厩戸皇子に対する尊称として理解されますが、書名全体をそのまま本人の正式な名前と考えるのは適切ではありません。
懐風藻が示す聖徳太子の評価
『懐風藻』は漢詩を中心とした文学作品ですが、序文には日本の漢詩文化の歴史的な展開が記されています。
そこに登場する聖徳太子は、爵位や官職を整え、礼儀を定めた人物として評価されています。
このような記述からは、8世紀の知識人たちが、厩戸皇子を政治制度や文化の発展に関わった重要人物として位置付けていたことがうかがえます。
つまり、「聖徳太子」という名称が広まった背景には、単なる個人の呼び名の変化だけでなく、政治的・文化的な功績を後世に伝えようとする評価の積み重ねがありました。
聖徳太子の別名が多くなった本当の理由
複数の呼称が存在する理由は、史料が作られた時代や目的によって、厩戸皇子のどの側面を強調するかが違っていたからです。
古い史料では皇族としての身分や宮殿との関係が表現され、後世の仏教関係の伝記では、信仰上の功績や聖人としての人物像が重視されました。
さらに、時代が下るにつれて太子信仰が広がり、伝記や説話の中で人物像が発展していきます。
こうした歴史の積み重ねが、厩戸皇子、豊聡耳、上宮太子、聖徳法王、聖徳太子という多彩な呼称を生み出したのです。
【誤解を解消】聖徳太子の本名・別名について知っておきたいこと
聖徳太子の名前を調べていると、「本名は厩戸豊聡耳皇子なのか」「厩戸王は後世に作られた名前なのか」といった疑問が生まれます。
ここでは、特に混同されやすいポイントを整理します。
本名は厩戸豊聡耳皇子で間違いない?
厳密には、現代の戸籍上のフルネームのような意味で、本名が確定しているわけではありません。
『古事記』には「上宮之厩戸豊聡耳命」、『日本書紀』には「厩戸豊聡耳皇子」や「上宮厩戸豊聡耳太子」という表記があります。
そのため、厩戸という名前の要素と、豊聡耳という呼称を含む複合的な名称が古代史料に残っている、と整理するのが正確です。
聖徳太子という名前は存在しなかったの?
聖徳太子という呼称が生前に使われていたことを示す確実な同時代史料は確認されていません。
しかし、これは厩戸王という人物の存在まで否定することを意味しません。
帝国書院の解説でも、聖徳太子のモデルとなった厩戸王という有力な王族が存在し、推古朝の政治に関わったという理解が有力であると説明されています。
したがって、「聖徳太子という名前は後世の尊称である」という話と、「聖徳太子に相当する人物が実在したか」という問題は、別々に考える必要があります。
別名を調べるときに注意したい3つのポイント
- 史料の成立年代:その名前が当時の記録なのか、没後に編纂された文献に登場するのかを確認する。
- 名前と称号の違い:厩戸という名前の要素と、太子・法王・聖徳などの尊称を区別する。
- 伝承と史実の違い:厩戸での出生や10人の話を聞き分けた逸話などは、史書に記された伝承として理解する。
この3点を意識するだけで、聖徳太子に関する歴史資料をかなり正確に読み解けるようになります。
【聖徳太子の別名】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:聖徳太子の別名には何がありますか?
A1:代表的な別名は、厩戸皇子、厩戸王、豊聡耳、上宮王、上宮太子、上宮厩戸豊聡耳太子、上宮聖徳法王などです。史料によって表記や読み方が異なります。
Q2:聖徳太子の本名は何ですか?
A2:一般には厩戸王(うまやとおう)と説明されます。ただし、古代史料には「上宮之厩戸豊聡耳命」など複数の表記があり、現代的な意味での正式なフルネームが確定しているわけではありません。
Q3:聖徳太子と厩戸王は別人ですか?
A3:いいえ、基本的に同じ人物を指します。聖徳太子は没後に広まった尊称で、厩戸王は歴史研究などで使われる呼称です。
Q4:聖徳太子は生前何と呼ばれていましたか?
A4:生前の人物を指す名称としては厩戸王や厩戸皇子が用いられます。ただし、当時の日常的な呼び方まで確定できる同時代史料はありません。
Q5:聖徳太子という名前はいつから使われたのですか?
A5:一般に重要な初出史料とされるのは、751年成立の『懐風藻』の序文です。706年の法起寺塔露盤銘にも「聖徳」の語があったとされますが、銘文の成立や真正性には議論があります。
Q6:豊聡耳という名前の由来は何ですか?
A6:『日本書紀』に記された、一度に10人の訴えを聞き分けたという逸話に由来する呼称として知られています。非常に聡明な人物であったことを象徴する名称です。
Q7:古事記と日本書紀では聖徳太子を何と呼んでいますか?
A7:『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命」、『日本書紀』では「厩戸豊聡耳皇子」「上宮厩戸豊聡耳太子」などと記されています。どちらにも、後世に一般化した「聖徳太子」という呼称とは異なる表現が見られます。
まとめ:聖徳太子の別名は史料と成立時期を知ると理解できる
聖徳太子には、厩戸皇子、厩戸王、豊聡耳、上宮王、上宮太子、上宮厩戸豊聡耳太子、上宮聖徳法王など、さまざまな呼称があります。
それぞれの名称には、出生伝承、優れた知性、宮殿との関係、仏教的な尊称といった異なる意味が込められています。
特に重要なのは、「聖徳太子」という名前が生前から使われていたわけではないという点です。『古事記』や『日本書紀』には厩戸を含む呼称が記され、751年成立の『懐風藻』には「聖徳太子」という名称が登場します。
また、706年の法起寺塔露盤銘に関する伝承もあり、「聖徳」という語の成立をめぐっては史料の真正性を含む研究上の論点が残っています。
【プロの結論】
聖徳太子の別名を正しく理解するためには、単純に名前を暗記するのではなく、「誰が、いつ、どの史料で、どのような意味を込めて呼んだのか」を考えることが大切です。
厩戸皇子という古代史料上の呼称と、後世の尊称である聖徳太子を区別すれば、歴史上の人物像と、長い年月をかけて形成された信仰上の人物像の違いも見えてきます。
名前の違いを追うことは、飛鳥時代の政治や仏教文化だけでなく、日本人が歴史上の人物をどのように評価し、後世に伝えてきたのかを知ることにもつながります。
2026年に歴史を学ぶ際にも、『古事記』『日本書紀』『懐風藻』『上宮聖徳法王帝説』を比較する視点は、聖徳太子という人物を理解するための重要な手がかりです。
主な参考史料・資料
- 国立公文書館「古事記」「歴史年表」
- 国文学研究資料館「古事記」「懐風藻」
- 奈良県「聖徳太子ってどんな人物?」
- 新纂浄土宗大辞典「聖徳太子」「上宮聖徳法王帝説」
- 帝国書院「聖徳太子は、なぜ『聖徳太子(厩戸王)』と表記されるようになったのですか」
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「聖徳太子という名は後世に名付けられたものであることが確認できる資料」
- 會津八一「法起寺塔婆露盤銘文考」および法起寺塔露盤銘に関する研究資料