日航機墜落事故と坂本九|搭乗理由・最期の状況・事故原因と追悼の歩み
1985年8月12日、日本航空123便が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。乗客・乗員524人のうち520人が犠牲となったこの事故では、「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」などの名曲で知られる歌手・坂本九さんも命を落とした。当時43歳だった。
なぜ坂本九さんは事故機に搭乗していたのか。大阪へ向かった理由は何だったのか。そして、事故発生から救助までに何が起き、妻の柏木由紀子さんや2人の娘はその後どのように歩んできたのか。2026年10月現在、事故から41年が経過した。事故調査報告書、JALの公式記録、遺族への報道各社の取材をもとに、搭乗の背景から事故原因、最期の状況、追悼の現在までを整理する。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 搭乗理由: 坂本九さんは知人の大阪府羽曳野市議選への応援に向かうため、日本航空123便に搭乗していた。
- 事故の概要: 1985年8月12日、乗客509人・乗員15人を乗せた123便が御巣鷹の尾根に墜落。520人が亡くなり、4人が生存した。
- 事故原因: 公式調査では、過去の修理に起因する後部圧力隔壁の破壊が原因と推定されている。
- 坂本九さんの年齢: 事故当時43歳。事故当日にNHK-FMの公開収録に出演していた。
- 遺族の歩み: 妻の柏木由紀子さんと2人の娘は、追悼やコンサートを通じて坂本九さんの歌と記憶を伝えている。
- 2026年の現状: 41回目の命日にも慰霊登山や追悼行事が行われ、事故の教訓が受け継がれている。
【事故の全体像】1985年8月12日、日本航空123便で何が起きたのか

日航機墜落事故は、1985年8月12日夕方に発生した日本航空123便の墜落事故である。
事故機はボーイング747SR-100型機、機体番号JA8119。東京・羽田空港から大阪・伊丹空港へ向かう国内定期便だった。
お盆の帰省シーズンと重なり、機内には多くの乗客がいた。坂本九さんをはじめ、企業関係者や家族連れなど、さまざまな人々が搭乗していた。
事故当日の時系列
日本航空の安全啓発センターが公表している事故概要によると、123便は18時12分に羽田空港を離陸した。
その約12分後、飛行の継続を困難にする重大な異常が発生する。
| 時刻・年月日 | 出来事 | 内容 |
|---|---|---|
| 1985年8月12日18時12分 | 羽田空港を離陸 | 大阪・伊丹空港へ向け出発 |
| 18時24分35秒 | 異常発生 | 伊豆半島東岸付近で後部圧力隔壁が破壊 |
| 18時24分以降 | 操縦困難 | 垂直尾翼の大部分と油圧操縦系統を喪失 |
| 約32分間 | 飛行継続 | 乗務員が操縦を試みる |
| 18時56分頃 | 墜落 | 群馬県上野村の御巣鷹山南方の尾根に墜落 |
| 翌朝 | 救難隊が現地到着 | 山間部での捜索・救助活動が進む |
| 1987年6月19日 | 事故調査報告書公表 | 事故原因について公式見解を公表 |
事故機には乗客509人、乗員15人の合計524人が搭乗していた。
そのうち520人が亡くなり、4人が重傷を負いながらも生存した。
犠牲者520人という数字は、乗客だけではなく乗員も含めた人数である。
この事故は、単独機による航空事故として世界でも極めて大きな犠牲者を出した事故として記録されている。
墜落地点は御巣鷹の尾根
墜落現場は群馬県多野郡上野村の山中に位置する御巣鷹山南方の尾根である。
現場は人里から離れた険しい山岳地帯だった。夜間の捜索活動は難航し、墜落場所の特定にも時間を要した。
JALの公式説明によれば、救難活動自体は事故直後から始まっていたものの、救難隊が現地に到着したのは翌朝だった。
事故発生から救助までの時間は、当時の山岳救難体制や情報共有、夜間活動の難しさを考えるうえでも重要な検証対象となっている。
【搭乗理由を解説】坂本九はなぜ日本航空123便に乗っていたのか
坂本九さんが123便に搭乗した理由は、大阪で予定されていた知人の選挙応援だった。
当時、坂本さんは歌手活動だけでなく、テレビ番組の司会やラジオ出演など幅広い仕事をこなしていた。
事故当日の8月12日も、東京・渋谷のNHKで公開収録に参加している。その後、大阪へ移動するために羽田空港へ向かった。
大阪の知人の選挙応援が目的だった
2025年8月11日公開の集英社オンラインの記事では、長女の大島花子さんへの取材を通じて、父親が事故機に乗った背景が紹介されている。
坂本さんは、大阪の知人が立候補した市議会議員選挙を応援するために大阪へ向かっていた。
また、元マネージャーの選挙応援だったことも、関係者の証言を紹介した過去の報道で伝えられている。
単なる仕事上の移動ではなく、長年の付き合いがある人物を応援するための訪問だった。
事故当日に出演していたNHK-FMの公開収録
坂本九さんの公式サイトとユニバーサルミュージックのプロフィールには、1985年8月12日の活動記録が残されている。
当日はNHK-FMの「歌謡スペシャル 秋一番!坂本九」の公開収録に出演していた。
この収録はNHK渋谷放送センター505スタジオで行われたもので、欧陽菲菲さんも出演している。
歌唱した楽曲には、次のような作品が含まれていた。
- 「上を向いて歩こう」
- 「見上げてごらん夜の星を」
- 「心の瞳」
- 「懐しきLove-song」
- 「For The Good Times」
このステージは坂本九さんの生前最後の公開収録となった。
事故から約3週間後の9月1日には、録音された番組がNHK-FMで放送された。
坂本九は事故当時何歳だった?
坂本九さんは1941年12月10日生まれ。
1985年8月12日の事故当時は43歳だった。
代表曲「上を向いて歩こう」は日本国内だけでなく海外でも知られ、1963年にはアメリカの音楽チャートで1位を獲得している。
国際的な知名度を持つ歌手として、テレビやラジオでも活躍を続けていた時期だった。
43歳という年齢は、歌手としても表現者としても、まだ多くの活動が期待される時期だったことを物語っている。
【事故原因の真相】後部圧力隔壁の破壊と公式調査報告書
日本航空123便の墜落原因については、1987年6月19日に当時の運輸省航空事故調査委員会が航空事故調査報告書を公表している。
その報告書で事故原因として推定されたのが、後部圧力隔壁の不適切な修理に起因する破壊だった。
後部圧力隔壁とは何か
航空機の客室は、上空でも人間が過ごせるように機内の気圧が調整されている。
その客室と機体後部の非与圧部分を隔てる構造物が後部圧力隔壁だ。
123便では、この隔壁が破壊されたことにより、客室内の加圧空気が機体後部へ急激に流れ込んだ。
その結果、機体後部の構造に重大な損傷が生じ、垂直尾翼の相当部分が破壊された。
さらに、動翼を動かすための油圧装置もすべて機能を失った。
航空機は通常、操縦系統を使って方向や姿勢を制御する。しかし123便では、この機能が失われたため、乗務員が通常の操縦操作を行うことができなくなった。
事故の7年前に行われた修理が関係していた
事故調査報告書によると、事故機には1978年、大阪空港で着陸時に尾部を滑走路へ接触させる事故が発生していた。
このとき損傷した後部圧力隔壁は、ボーイング社によって修理された。
しかし、その修理における隔壁の上下接続作業に不具合があったと推定されている。
その後、約7年間の飛行によって修理部分に微小な疲労亀裂が発生し、徐々に拡大した。
1985年8月12日の飛行中、隔壁の前後にかかる圧力差が大きくなった段階で亀裂がつながり、隔壁が破壊されたというのが公式調査の説明である。
事故原因を整理すると
1. 1978年、大阪空港で尾部接触事故が発生。
2. 後部圧力隔壁が修理される。
3. 修理部分に不具合が残ったと推定される。
4. 約7年間の飛行で疲労亀裂が進行。
5. 1985年8月12日、後部圧力隔壁が破壊。
6. 機体後部、垂直尾翼、油圧操縦系統に重大な損傷が発生。
7. 操縦機能を失い、御巣鷹の尾根に墜落。
重要なのは、事故原因が単なる操縦ミスではなく、過去の機体修理と構造上の問題に深く関係していた点である。
「事故原因は別にある」という説は本当なのか
日航機墜落事故については、事故発生直後から現在に至るまで、さまざまな疑問や別原因説が語られてきた。
その背景には、墜落地点の特定が遅れたことや、事故当日の情報が錯綜したこと、事故調査報告書の表現が「推定される」となっていることなどがある。
2024年10月には、事故原因の再調査などを求める質問主意書が衆議院に提出された。事故原因をめぐる遺族や社会の疑問が、長い年月を経ても残っていることを示す動きだ。
一方、2025年4月2日の衆議院国土交通委員会では、運輸安全委員会側が報告書の「推定される」という表現について説明している。
その説明では、事故原因を断定できない場合にも推定の度合いが分類されており、123便事故については専門家による審議を経て、ほぼ間違いないという強い推定を示す表現が使われたとされた。
したがって、「推定」という言葉だけを根拠に、事故原因がまったく分かっていないと理解するのは正確ではない。
事故調査報告書に示された原因と、インターネット上で語られる別原因説は、証拠の裏付けという点で区別する必要がある。
【坂本九の最期】事故当日の行動と身元確認までの経緯
坂本九さんの最期について調べる際、まず押さえておきたいのは、事故当日の公開収録が最後の公の活動として記録されていることだ。
NHK-FMの収録を終え、大阪へ向かうために日本航空123便へ搭乗した。その後、機体は墜落し、坂本さんは43歳で亡くなった。
ただし、墜落直前に坂本さん本人が何をしていたのか、機内でどのような状況に置かれていたのかについて、本人の最期の言葉や詳細な行動を確定できる公的記録はない。
乗客名簿で本名が伝えられた
事故発生後、テレビや新聞では乗客の安否に関する情報が伝えられた。
坂本さんの妻である柏木由紀子さんは、2025年の日刊スポーツの取材で、テレビの乗客名簿に坂本さんの本名である「オオシマヒサシ」が伝えられたと振り返っている。
芸名の坂本九ではなく、本名によって事故機への搭乗が明らかになった。
事故発生直後、家族や事務所関係者は安否確認に奔走した。群馬県藤岡市の体育館にも向かい、情報を待ち続けたという。
身元確認の手がかりとなったペンダント
日刊スポーツの2025年8月10日の報道によれば、事故から4日後に坂本さんのショルダーバッグが見つかった。
バッグには娘が作ったカードや、愛用していたウォークマンなどが入っていたという。
また、身元確認の重要な手がかりとなったのが、坂本さんが身につけていたペンダントだった。
そのペンダントは、妻の柏木由紀子さんと挙式した茨城県笠間市の笠間稲荷神社に関係する品だった。
長女の大島花子さんも、2025年の集英社オンラインの取材で、父親と笠間市との思い出や、ペンダントにまつわる家族のつながりを語っている。
「飛行機に乗るのが嫌だった」という発言の真相
事故当日の朝、坂本九さんが飛行機に乗ることを嫌がるような発言をしていたというエピソードも報道されている。
2019年のテレビ番組で、次女の舞坂ゆき子さんと妻の柏木由紀子さんが当時の思い出を語った。
報道によれば、坂本さんは当日の朝、空を見上げながら、雲の動きが速いことを理由に飛行機に乗るのが嫌だという趣旨の言葉を娘に話していたという。
この話は家族による後年の回想として伝えられたものだ。
事故を予見していた証拠や、墜落原因と直接結びつく情報ではない。後から振り返る家族にとって忘れられない記憶の一つとして受け止めるべきエピソードである。
【妻・柏木由紀子と遺族の歩み】事故後も続く追悼と歌の継承
坂本九さんの妻は、女優として活動してきた柏木由紀子さんである。
2人は1971年に結婚し、2人の娘をもうけた。長女は歌手の大島花子さん、次女は舞坂ゆき子さんである。
事故当時、長女は11歳、次女は8歳だった。
突然夫を失い、幼い2人の娘を育てることになった柏木さんは、その後も家族とともに坂本さんの記憶を大切にしてきた。
「心の瞳」が家族の活動を支える存在に
坂本九さんの生前最後の時期に発表された楽曲の一つが「心の瞳」だ。
この曲は後年、合唱曲として学校や合唱団などでも歌われるようになった。
日刊スポーツの2025年の取材で柏木さんは、この曲が広く歌われるようになったことをきっかけに、家族で坂本さんの話ができるようになったと振り返っている。
やがて柏木さんと娘たちは、坂本九さんの楽曲を歌い継ぐコンサート活動を始めた。
単に亡くなった歌手の代表曲を再演するだけではない。家族自身が歌を通じて父親の人柄や作品を伝える活動となっている。
2025年には坂本九の作品を未来へつなぐプロジェクトが始動
事故から40年を迎えた2025年8月20日、柏木由紀子さんを発起人代表とする「坂本九『明日(あした)』へのプロジェクト」が発足した。
ユニバーサルミュージックの発表によると、このプロジェクトは坂本九さんの音楽や活動の軌跡を、次の世代や世界へ伝えていくことを目指している。
参加者には柏木由紀子さんのほか、石倉三郎さん、武田鉄矢さん、中山秀征さん、中尾ミエさんらが名を連ねた。
40年という節目を、単なる追悼ではなく、作品を未来へ継承する機会に変えようとする取り組みだ。
2026年も続く家族の追悼
2026年8月12日、事故から41年となった命日にも、柏木由紀子さんは家族で坂本さんの墓参りをしたことを報告した。
テレビ朝日や日刊スポーツの報道によると、娘たちや孫たちとともに墓前に立ち、坂本さんが好きだったワインを供えたという。
柏木さんは、年月が経っても寂しさや悲しさが完全に消えるわけではないという心境を明かしている。
事故を経験した家族にとって、41年という時間は、悲しみが単純に過去のものになる期間ではなかった。
一方で、家族がそろって墓参りを続け、作品を次の世代へ伝える姿からは、坂本九さんの存在が今も家族の生活の中に息づいていることがうかがえる。
【御巣鷹の尾根と慰霊の園】2026年も続く追悼活動
日航機墜落事故の記憶を伝える場所として知られているのが、群馬県上野村の御巣鷹の尾根と、麓にある慰霊の園である。
両者は役割が異なる。
御巣鷹の尾根は実際の墜落現場であり、犠牲者の墓標や昇魂之碑が設置されている。一方、慰霊の園は犠牲者を追悼するための施設で、毎年の追悼慰霊式などが行われる。
毎年8月12日に行われる慰霊登山
遺族は毎年、事故が発生した8月12日前後に御巣鷹の尾根を訪れ、犠牲となった家族や友人を追悼している。
2026年8月12日には事故から41年を迎え、遺族らが慰霊登山を行った。
テレビ朝日の2026年8月13日の報道では、49家族162人の遺族が墜落現場を訪れ、家族の墓標の前で手を合わせたことが伝えられている。
また、夕方には慰霊の園で追悼慰霊式が行われ、墜落時刻にあたる18時56分に黙祷が捧げられた。
この日、遺族だけでなく日本航空の関係者も追悼に参加し、空の安全を守ることの重要性を改めて確認した。
JAL安全啓発センターに残される事故の記録
事故の教訓を後世に伝える施設として、日本航空は2006年4月24日に安全啓発センターを開設した。
施設には事故機の残存機体や後部圧力隔壁、コックピット・ボイスレコーダー、ご遺品、乗客が残した手紙などが展示されている。
事故を単なる歴史上の出来事として扱うのではなく、実際の機体や記録を通じて航空安全について学ぶための施設となっている。
JALグループの社員研修にも活用され、事故の教訓を安全運航につなげる役割を担っている。
事故を知らない世代へ伝える意味
2026年には事故発生から41年が経過した。
1985年当時に生まれていなかった世代にとって、日航機墜落事故は直接経験した出来事ではない。
だからこそ、事故の経緯や原因、犠牲者の存在を記録として残す意味は大きい。
坂本九さんの音楽は、事故を知らない若い世代にも親しまれている。その楽曲が歌われるたびに、坂本さんという人物の生涯や、事故によって失われた多くの命に関心を持つきっかけが生まれる。
追悼とは、過去を振り返るだけではなく、同じ悲劇を繰り返さないために記憶を未来へつなぐ行為でもある。
【プロの結論】坂本九が41年後も語り継がれる理由
坂本九さんが現在も語り継がれる理由は、単に国民的歌手だったからではない。
その音楽が世代や国境を越えて残り続けていること、そして日航機墜落事故という日本の航空史における重大な出来事と、その生涯が深く結びついていることが大きい。
1. 音楽そのものに時代を超える力がある
「上を向いて歩こう」は、国内だけでなく海外でも成功した作品だ。
「見上げてごらん夜の星を」や「明日があるさ」なども、長い年月にわたって親しまれてきた。
さらに「心の瞳」は合唱曲として広まり、坂本九さんを直接知らない世代にも作品が届いている。
作品が残ることで、人物の存在も記憶され続けている。
2. 事故の記憶と遺族の活動が結びついている
柏木由紀子さんや娘たちによるコンサート、墓参り、追悼活動は、坂本九さんの音楽を家族の記憶とともに伝える取り組みだ。
事故から何年経っても、家族にとって失った人への思いが変わらないことも、2025年と2026年の報道から伝わってくる。
3. 事故の教訓が航空安全の問題として残っている
123便の事故は、過去の修理の不具合が重大事故につながり得ることを示した。
整備記録、修理の品質管理、機体構造の検査、異常発生時の対応など、航空安全に関わる多くの課題を社会に突きつけた。
JAL安全啓発センターが現在も存在するのは、事故を風化させず、安全運航に反映する必要があるからだ。
情報を調べる際に押さえたい判断基準
日航機墜落事故について調べる場合、情報の種類を分けて理解すると、誤解を防ぎやすい。
- 事故原因を知りたい場合: 1987年の航空事故調査報告書と2011年の公式解説書を確認する。
- 坂本九の搭乗理由を知りたい場合: 遺族や当時の関係者への取材記事を確認する。
- 最期の状況を知りたい場合: 事故当日の記録と、身元確認に関する家族の証言を区別する。
- 追悼活動を知りたい場合: 上野村、慰霊の園、JALの公式発表や遺族の発信を確認する。
- 事故の別原因説を調べる場合: 公式調査の結論と、裏付けが確認されていない主張を混同しない。
事故に関する情報を正確に理解することは、520人の犠牲者とその家族の記憶を尊重することにもつながる。
【日航機墜落事故と坂本九】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:坂本九はなぜ日本航空123便に乗っていたのですか?
A1:大阪の知人の市議会議員選挙を応援するためです。事故当日は東京のNHKで公開収録に参加し、その後、大阪へ移動するため123便に搭乗しました。
Q2:坂本九は日航機墜落事故当時何歳でしたか?
A2:43歳でした。1941年12月10日生まれで、1985年8月12日に発生した事故で亡くなりました。
Q3:日航機墜落事故の原因は何だったのですか?
A3:公式の航空事故調査報告書では、過去の不適切な修理に起因する後部圧力隔壁の破壊が原因と推定されています。隔壁の破壊によって機体後部や垂直尾翼、油圧操縦系統が損傷し、操縦機能を失ったことが墜落につながりました。
Q4:坂本九の妻は誰ですか?
A4:女優の柏木由紀子さんです。1971年に結婚し、長女の大島花子さんと次女の舞坂ゆき子さんがいます。事故後も家族で坂本九さんの楽曲を歌い継いでいます。
Q5:坂本九の最期はどのような状況だったのですか?
A5:1985年8月12日、NHK-FMの公開収録を終えた後、日本航空123便に搭乗し、墜落事故で亡くなりました。事故当日の最後の公開収録は記録に残っていますが、機内での個人的な最期の言葉や詳細な行動は確認されていません。
Q6:御巣鷹の尾根と慰霊の園は同じ場所ですか?
A6:異なる場所です。御巣鷹の尾根は実際の墜落現場で、慰霊の園は群馬県上野村の麓にある追悼施設です。毎年8月12日前後には、それぞれで慰霊登山や追悼慰霊式が行われています。
まとめ:坂本九と日航機墜落事故の記憶を未来へ
1985年8月12日、日本航空123便の墜落事故によって520人が犠牲となった。その中には、当時43歳だった歌手・坂本九さんもいた。
坂本さんが搭乗していた理由は、大阪の知人の選挙応援だった。事故当日はNHK-FMの公開収録に出演し、その後、東京から大阪へ向かう途中で事故に遭った。
事故原因については、1987年の航空事故調査報告書が後部圧力隔壁の不適切な修理に起因する破壊を推定している。事故後は救助活動や事故調査が進められ、現在もJAL安全啓発センターなどで教訓が伝えられている。
妻の柏木由紀子さんと2人の娘は、長年にわたって追悼を続け、坂本九さんの楽曲を歌い継いできた。2025年には作品を未来へつなぐプロジェクトが発足し、2026年の41回目の命日にも家族による墓参りが行われた。
坂本九さんの歌声が今も残り続けていることは、失われた命を忘れないための一つの大切な形である。
日航機墜落事故を正しく知り、犠牲者520人の記憶と航空安全の教訓を次の世代へ伝えていくこと。それが、41年を経た今も変わらない課題である。
主要な参照資料
- 日本航空・安全啓発センターの事故概要、機体損傷、救難経緯に関する公式説明。
- 国土交通省の事故調査報告書解説に関する資料、および2025年の衆議院国土交通委員会答弁。
- 集英社オンライン、日刊スポーツによる坂本九さんの搭乗理由と遺族への取材。
- 2026年の41回目の命日に関するテレビ朝日、日刊スポーツの報道。
- ユニバーサルミュージックによる坂本九さんの経歴・作品情報と2025年の継承プロジェクト発表。