五箇条の御誓文の内容とは?2026年に読み解く原文・現代語訳と制定背景

目次

五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)は、1868年(慶応4年)4月6日、明治天皇が神々に誓う形式で示した、明治新政府の基本方針です。政治の決定に公論を重んじること、身分を超えて協力すること、古い慣習を改めること、世界の知識を取り入れることなど、近代日本の国家づくりにつながる五つの理念が掲げられました。

五つの条文は、短いながらも明治維新の政治的な方向性を凝縮しています。一方、現代の民主主義や国会制度をそのまま約束した文書ではありません。成立した背景には戊辰戦争や新政府の統治体制を整える必要があり、由利公正、福岡孝弟、木戸孝允らの政治的な判断も深く関わっています。

2026年現在、歴史を理解するうえでも押さえておきたいのは、五箇条の御誓文の原文だけでなく、各条文が何を意味し、実際の明治政府の政策とどのように結びついたのかという点です。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

- 制定日: 1868年4月6日(慶応4年3月14日)。明治天皇が京都御所で示した新政府の基本方針。
- 五つの内容: 公議の尊重、上下の協力、各人の志の実現、悪習の打破、世界の知識の導入。
- 歴史的意義: 明治維新の政治理念を示し、近代国家建設の方向性を明確にした。
- 起草者: 由利公正が原案を作り、福岡孝弟が修正、木戸孝允がさらに加筆・修正した。
- 重要な違い: 五箇条の御誓文が政府の政治方針であるのに対し、五榜の掲示は一般民衆に向けた法令・規制だった。

【まず確認】五箇条の御誓文はいつ、何のために制定された?

五箇条の御誓文内容

五箇条の御誓文が発せられたのは、1868年(慶応4年)4月6日です。旧暦では慶応4年3月14日に当たります。

当時の日本は、徳川幕府による政治体制が終わり、明治新政府が新たな国家の仕組みをつくろうとしていた時期でした。

1867年10月には徳川慶喜が大政奉還を行い、同年12月には王政復古の大号令が発せられます。しかし、政治権力の移行は簡単には進みませんでした。

1868年には戊辰戦争が始まり、旧幕府勢力と新政府軍の対立が続いていました。新政府には、国内の政治的な混乱を収束させ、諸藩や公家、武士などの協力を得ながら新しい統治体制を確立する必要がありました。

そこで掲げられたのが五箇条の御誓文です。

京都御所で行われた誓約の儀式

1868年4月6日、明治天皇は京都御所の紫宸殿に公卿や諸侯、政府関係者らを集めました。

天地の神々を祭り、明治天皇が新政府の政治方針を神々に誓う形式で儀式が行われています。

このとき、五箇条の御誓文を奉読したのは、政府副総裁の三条実美です。

単に政治家が新しい政策を発表したのではなく、天皇自らが先頭に立って国家の基本方針を示すという形式が採用された点に特徴があります。

五箇条の御誓文を制定した主な理由

制定の背景には、主に次のような政治的課題がありました。

- 幕府に代わる新しい政治体制の基本方針を示すこと。
- 公家や諸藩の協力を得て、政府の統一性を高めること。
- 身分や立場の違いを超えて国家運営に参加する姿勢を示すこと。
- 旧来の慣習にとらわれず、国際社会に対応すること。
- 戊辰戦争下の混乱を乗り越え、新しい国家の方向性を明確にすること。

つまり、五箇条の御誓文は、明治維新によって誕生した新政府が、どのような理念に基づいて国を運営するのかを内外に示す政治的な宣言だったのです。

【原文と現代語訳】五箇条の御誓文の5つの内容を一覧で解説

五箇条の御誓文には、五つの条文があります。

原文は明治初期の文語体で書かれているため、「万機」「経綸」「陋習」「皇基」など、現在では日常的に使われない言葉も登場します。

それぞれの意味を理解すると、明治新政府が目指した政治の方向性が見えてきます。

五箇条の御誓文の原文と現代語訳

条文 原文 現代語訳・意味
第一条 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ 広く会議を開き、政治上の重要事項は多くの人々の公正な議論に基づいて決めるべきである。
第二条 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ 身分や立場の上下を超えて心を一つにし、積極的に国家運営を進めるべきである。
第三条 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス 公務に携わる者や武士から庶民まで、それぞれの志を実現できるようにし、人々の意欲を失わせないことが大切である。
第四条 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ 古くからの悪い習慣を改め、普遍的な道理に基づいて政治を行うべきである。
第五条 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ 世界各国から知識を積極的に取り入れ、天皇を中心とする国家の基盤を大いに発展させるべきである。

この五つの条文は、政治の進め方から社会のあり方、外交・国際関係までを視野に入れた内容です。

五箇条の御誓文の前文も重要

五箇条の御誓文には、五つの条文に続いて、明治天皇の決意を示す前文があります。

原文

我国未曽有ノ変革ヲ為ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ

現代語訳

わが国がこれまでにない大きな変革を行おうとしている今、私(天皇)は自ら人々の先頭に立ち、天地の神々に誓って国家の基本方針を定め、すべての人々の生活を守る道を確立しようとしている。皆もこの趣旨に従い、心を一つにして努力してほしい。

この前文からは、明治天皇が新しい国家体制の確立に向けて、政府関係者や国民の協力を求めていたことが読み取れます。

【5つの条文を深掘り】五箇条の御誓文の意味をわかりやすく解説

五箇条の御誓文を理解するには、単純に現代語訳を覚えるだけでは不十分です。それぞれの条文が当時の政治や社会に何を求めていたのかを確認する必要があります。

第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」

第一条は、政治上の重要な問題を一部の権力者だけで決めるのではなく、広く会議を開き、公正な議論を通じて決定するという理念です。

「万機」は国政に関するあらゆる重要事項、「公論」は個人的な利益や一方的な意見に偏らない、公正な議論を意味します。

江戸時代の幕府中心の政治体制から、新しい政治の仕組みへ移行する時期に掲げられたこの方針は、政治参加や合議を重視する考え方として重要でした。

後年、この条文は自由民権運動などで国会開設や公議尊重を求める際の理念としても注目されます。

ただし、1868年の時点で、すべての国民に選挙権を与えたり、国民が直接政治を決めたりする制度が成立したわけではありません。

第二条「上下心を一にして盛んに経綸を行うべし」

第二条は、社会の上層と下層が協力し、国家運営を積極的に進めることを求めています。

「経綸」とは、国を治めるための政策や国家運営のことです。

幕府が倒れた直後の日本では、旧幕府側の人々と新政府側の人々、各藩の関係者など、政治的な立場の違いが大きな問題になっていました。

こうした対立を乗り越えるためにも、身分や所属にとらわれず、国家の発展に向けて協力する姿勢が必要だったのです。

この条文は、国家の統一と政治的な協調を重視した方針といえます。

第三条「官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ」

第三条は、官吏や武士だけでなく、一般の庶民まで、それぞれの志を実現できる社会を目指す内容です。

ここで注目したいのは、「官武一途庶民に至る迄」という表現です。

政治を担う官吏や軍事に関わる武士だけでなく、広く庶民にも言及している点に、従来の身分制度から変化しようとする姿勢が表れています。

また、「人心をして倦まざらしめん事を要す」という部分は、人々が希望や意欲を失わず、それぞれの役割を果たせるようにすることが大切だという意味です。

国家の発展には、一部の支配層だけでなく、社会全体の力が必要だという考え方が示されています。

第四条「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」

第四条は、古くから続いてきた悪い慣習を改め、普遍的な道理に基づいて政治や社会を運営することを求めています。

「陋習」とは、時代に合わなくなった悪い習慣や風習です。

幕末の日本では、外国との関係をめぐって開国派と攘夷派が対立していました。新政府が安定した国家運営を行うには、旧来の考え方に固執せず、時代の変化に対応する必要がありました。

この条文は、従来の慣習を無条件に守るのではなく、合理性や普遍的な道理を重視する姿勢を示しています。

第五条「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」

第五条は、世界各国から知識を学び、それを日本の発展に役立てることを掲げています。

「智識を世界に求める」という言葉には、外国の学問、技術、制度などを積極的に取り入れる姿勢が表れています。

当時の日本は、欧米諸国との外交関係を構築し、国際社会の中で独立した国家としての基盤を整える必要がありました。

「皇基」とは、天皇を中心とする国家の基盤を指します。

つまり、外国の知識を取り入れること自体が目的なのではなく、それによって国家を発展させることが最終的な目標だったのです。

五つの条文を通して見ると、五箇条の御誓文には、政治の公正さ、社会の協力、個人の意欲、古い慣習の改革、国際的な知識の吸収という五つの方向性が示されています。

【起草者は誰?】由利公正・福岡孝弟・木戸孝允の役割

五箇条の御誓文は、明治天皇が示した政治方針ですが、その文章が完成するまでには複数の政治家が関わっています。

中心となったのは、由利公正、福岡孝弟、木戸孝允の三人です。

由利公正が原案を起草

最初に原案を作成したのは、越前福井藩出身の由利公正です。

由利公正は、明治新政府の参与として政治に関わった人物で、旧名を三岡八郎といいます。

彼が起草した案が、五箇条の御誓文の出発点となりました。

当初の案では、政治の基本方針について諸侯などが会議を行い、合意を形成するという考え方が盛り込まれていました。

福岡孝弟が原案を修正

次に修正を加えたのが、土佐藩出身の福岡孝弟です。

福岡は由利の原案を修正し、新政府の政治方針としてまとめる作業に関わりました。

この段階で、政治運営の基本理念を示す文書としての形が整えられていきます。

木戸孝允が最終的な成立に大きく関与

さらに重要な役割を果たしたのが、長州藩出身の木戸孝允です。

木戸は、当時も一部に残っていた鎖国・攘夷論の動きを懸念していました。

そこで、天皇が群臣を率いて天地の神々に誓い、その内容を天下に広く示す方式を提案します。

宮内庁書陵部の木戸孝允文書展示資料によれば、木戸は福岡案に加筆・修正を行い、「会盟式」を「会誓式」に改めるなど、誓約の形式にも変更を加えました。

この変更によって、単に諸侯が集まって政治方針を合意するという形式から、天皇が神々に誓うという形式へと方向性が変わりました。

五箇条の御誓文の成立に関わった人物

人物 出身・立場 主な役割
由利公正(三岡八郎) 越前福井藩 五箇条の御誓文の原案を起草
福岡孝弟 土佐藩 由利公正の原案を修正
木戸孝允 長州藩 国是を定める誓約方式を提案し、福岡案を加筆・修正
明治天皇 天皇 神々に誓う形式で新政府の基本方針を示す
三条実美 公家・政府副総裁 儀式において御誓文を奉読

この成立過程から分かるのは、五箇条の御誓文が一人の政治家の考えだけで完成したものではないということです。

異なる立場の政治家が議論と修正を重ね、明治新政府の統一的な政治理念としてまとめ上げた文書でした。

【混同しやすいポイント】五箇条の御誓文と五榜の掲示の違い

五箇条の御誓文と混同されやすい歴史用語に「五榜の掲示(ごぼうのけいじ)」があります。

どちらも1868年に明治新政府が出した五つの項目を持つ文書ですが、目的も対象者も大きく異なります。

五箇条の御誓文は政治の基本方針

五箇条の御誓文は、明治新政府がこれからどのような理念で国家を運営するのかを示したものです。

公論の尊重や国際的な知識の導入など、政治の方向性を示す内容が中心でした。

五榜の掲示は民衆に向けた具体的な規制

一方、五榜の掲示は、五箇条の御誓文が発せられた翌日の1868年4月7日(慶応4年3月15日)に、明治新政府が全国の高札場などに掲示するよう命じた五つの高札です。

主な内容は次のとおりです。

- 第一札:五倫の道を守り、殺人・放火・窃盗などを禁じる。
- 第二札:徒党・強訴・逃散を禁止する。
- 第三札:キリスト教などの信仰を禁止する。
- 第四札:万国公法を守り、外国人への加害を禁止する。
- 第五札:士民が本国から脱走することを禁止する。

第一札から第三札は、旧幕府時代の民衆統制政策を引き継いだ内容でもありました。

二つの文書を比較すると見えてくる明治政府の特徴

五箇条の御誓文と五榜の掲示を比較すると、明治新政府の政治には、改革を進める側面と、従来の秩序を維持しようとする側面が同時に存在していたことが分かります。

五箇条の御誓文では、公論や世界の知識を重視する新しい方向性を掲げる一方、五榜の掲示では、民衆の行動や宗教などに対する旧来型の規制を継続しました。

この違いは、明治維新が単純に古い制度をすべて廃止して新しい制度に置き換えたわけではなかったことを示しています。

新政府は、国家の近代化と社会秩序の維持という二つの課題に同時に取り組んでいたのです。

【歴史的意義】五箇条の御誓文は日本の近代化に何をもたらした?

五箇条の御誓文の歴史的意義は、明治新政府の基本理念を明確にし、その後の近代国家建設を方向づけた点にあります。

公議を重視する政治理念を示した

第一条の「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、日本の政治史において重要な意味を持つ言葉です。

政府の意思決定において公議を尊重する考え方は、その後の政治制度の議論にも影響を与えました。

とりわけ自由民権運動では、この条文が公議や国会開設を求める主張と結びついていきます。

世界の知識を取り入れる近代化の方向性を示した

第五条にある「智識を世界に求め」という考え方も、明治時代の近代化を理解するうえで欠かせません。

明治政府は、欧米諸国の制度や技術、学問などを取り入れながら、新しい国家の仕組みを整えていきました。

五箇条の御誓文は、そうした国際的な視野を持つ国家づくりの理念を示していたのです。

1946年の新日本建設の詔書にも引用された

五箇条の御誓文は、明治維新の時代だけで終わった文書ではありません。

1946年1月1日に発せられた「新日本建設ニ関スル詔書」では、明治天皇が示した五箇条の御誓文が冒頭に掲げられました。

この詔書は、一般に昭和天皇の人間宣言として知られています。

国立公文書館の資料でも、同詔書が五箇条の御誓文を引用していたことが確認できます。

戦後の日本を再建する際にも、明治初年に掲げられた公議や協力の理念が改めて取り上げられたのです。

五箇条の御誓文を民主主義の完成形と考えてはいけない

ここで注意したいのが、五箇条の御誓文を現代の民主主義と完全に同じものとして理解しないことです。

確かに第一条には公論の尊重が示され、第三条では庶民にも言及しています。

しかし、1868年当時は、現代のような国民主権や普通選挙制度が確立していたわけではありません。

政治の実権は新政府の指導者たちにあり、一般庶民が平等に政治的意思決定へ参加できる仕組みが整っていたわけでもありません。

五箇条の御誓文は、近代的な政治理念につながる重要な出発点でありながら、当時の政治体制の限界も抱えていた文書です。

この両面を理解することが、明治維新の歴史を正確に捉えるうえで重要です。

【よくある質問】五箇条の御誓文の内容に関するFAQ

Q1:五箇条の御誓文はいつ発布されましたか?

1868年4月6日です。旧暦では慶応4年3月14日に当たります。明治天皇が京都御所で神々に誓う形式で、新政府の基本方針を示しました。

Q2:五箇条の御誓文の5つの内容を簡単に覚える方法はありますか?

次の五つに整理すると覚えやすくなります。

1. 会議を開いて公正に政治を決める。
2. 身分の上下を超えて協力する。
3. それぞれの志を実現できる社会を目指す。
4. 古い悪習を改める。
5. 世界の知識を取り入れて国を発展させる。

Q3:五箇条の御誓文を作った人物は誰ですか?

由利公正が原案を起草し、福岡孝弟が修正を加え、木戸孝允がさらに加筆・修正しました。三人の政治家が協力して成立させた文書です。

Q4:五箇条の御誓文と五榜の掲示は何が違いますか?

五箇条の御誓文は新政府の政治理念を示した文書です。一方、五榜の掲示は一般民衆に向けて掲示された五つの高札で、道徳や宗教、集団行動などに関する規制を定めていました。

Q5:五箇条の御誓文は日本の民主主義を宣言したものですか?

公議を重視する考え方を示した点では、民主主義につながる理念を含んでいます。ただし、国民主権や普通選挙を定めた文書ではなく、現代の民主主義制度を宣言したものではありません。

まとめ:五箇条の御誓文は明治維新の方向性を示した重要な政治方針

五箇条の御誓文は、1868年4月6日に明治天皇が示した、明治新政府の基本方針です。

その五つの内容は、公議の尊重、上下の協力、個人の志の実現、旧来の悪習の打破、世界の知識の導入でした。

由利公正が原案を作成し、福岡孝弟が修正を加え、木戸孝允がさらに政治的な理念と誓約の形式を整えたことで成立しました。

また、五箇条の御誓文と五榜の掲示を比較すると、明治新政府が近代化を進める一方で、旧来の社会秩序を維持しようとしていたことも分かります。

五箇条の御誓文を理解するうえで大切なのは、五つの条文を暗記するだけでなく、なぜ1868年にこの方針が必要だったのかを考えることです。

明治維新は、政治体制を変えるだけでなく、日本の社会や国際関係を大きく変えていく転換期でした。その出発点に掲げられた五箇条の御誓文は、日本の近代国家形成を考えるうえで、2026年現在も読み継ぐ価値のある歴史資料です。

主な史料・参考資料: 国立公文書館所蔵「五箇条ノ御誓文」、アジア歴史資料センターの歴史解説、宮内庁書陵部「木戸孝允文書展示目録」、文化庁「文化遺産オンライン」、明治神宮の口語訳を参照しています。