【改革の実態】公地公民・班田収授・租庸調はいつ完成したのか

目次

大化の改新を学ぶ際に注意したいのは、646年の改新の詔に書かれた制度が、その年から全国で完全に実施されたわけではないという点だ。

実際には、政治改革の方針が示されてから、戸籍の作成、地方行政の整備、土地の配分、税制の確立へと段階的に進んでいった。

戸籍制度は670年の庚午年籍が大きな節目

大化の改新何が変わった

改新の詔には戸籍や計帳の作成が記されているが、全国規模の戸籍整備には時間がかかった。

重要な節目が、670年に作成された庚午年籍(こうごねんじゃく)である。

これは日本最初の全国的な戸籍として知られ、その後の人民把握や税制度の基礎となった。

さらに690年には庚寅年籍が作成されている。

こうした戸籍の整備によって、国家は人民の居住状況や年齢、家族関係などを把握し、土地の配分や税の負担を管理できるようになっていった。

戸籍は単なる人口調査ではない。国家が人民を直接支配するための重要な行政基盤だった。

班田収授法が本格的に機能するのは大宝律令以降

班田収授法は、一般に大化の改新で始まった制度として説明される。

しかし、実際に制度が本格的に整えられ、運用されるようになるのは701年の大宝律令制定以降である。

基本的な仕組みは次のとおりだ。

1. 戸籍を作成し、人民の情報を把握する。
2. 年齢などの条件に従って口分田を支給する。
3. 受け取った土地を耕作する。
4. 土地の面積などに応じて租を納める。
5. 死亡など所定の条件に該当した場合、口分田を国家に返還する。

国土交通省の地籍調査Webサイトでも、班田収授法について、戸籍の作成や口分田の配分を含む土地管理制度として解説している。

この制度のポイントは、土地の配分と税の徴収が連動していることだ。

国家が土地を把握し、誰にどれだけの田を与えたかを管理することで、税を徴収する基盤を整えたのである。

ただし、実際の土地管理には、測量や境界の確認、戸籍の更新、地方官による事務作業が必要だった。制度を定めることと、全国で実際に運用することの間には大きな隔たりがあった。

租庸調は農民の暮らしをどう変えたのか

租庸調は、国家が人民から税や労働力を集めるための仕組みだった。

それぞれの負担を具体的に見ると、次のようになる。

租:田地に対する税

田の面積や収穫に応じて稲を納める。平凡社の『日本大百科全書』などでは、日本の律令制における租は、田積を基準に課される税として説明されている。

庸:労働の代わりに納める負担

本来は都での労働が基本で、一定の条件で布などによる代納が認められた。

調:地方の特産物を納める負担

布や絹など、地域の産物を中央政府に納める仕組みだった。

このほか、地方での土木工事などに従事する雑徭や、軍事に関する負担もあった。

農民にとっては、田を耕すだけでなく、税を納めたり、労働に従事したりする必要があった。

つまり、大化の改新が目指した国家の中央集権化は、行政の効率化だけではなく、人民の生活に直接関わる負担の再編でもあった。

【日本書紀の真相】改新の詔は本当に646年に出されたのか

大化の改新をめぐる歴史研究で、特に重要な論点が『日本書紀』に記された改新の詔の信憑性である。

『日本書紀』は720年に完成した歴史書だ。646年の出来事から約74年後に編纂されている。

そのため、改新の詔に記された文章が、当時の原文をそのまま保存しているのか、それとも後世の制度を反映して書き直されたものなのかが問題になっている。

なぜ改新の詔に疑問が持たれているのか

大きな理由の一つが、行政区画の表記である。

『日本書紀』の改新の詔には「郡司」という表現が登場する。しかし、7世紀後半の地方行政区画を示す同時代の史料では、「評(こおり)」という表記が確認されている。

この問題は郡評論争と呼ばれる。

奈良文化財研究所による木簡研究では、藤原宮跡から出土した木簡が重要な証拠として取り上げられている。

特に699年の木簡には「評」の表記が確認されており、701年の大宝律令施行直前まで、地方行政区画として評が使われていたことを示している。

つまり、646年の詔に記された「郡」という表現には、後世の制度を反映した可能性がある。

これは『日本書紀』の記述を考えるうえで重要な問題だ。

改新の詔にはどのような学説があるのか

研究上、主に次のような考え方が論じられてきた。

潤色説

646年に実際の詔が出されたものの、後に『日本書紀』を編纂する際、当時の律令制度に合わせて文章の一部が修正・補足されたとする考え方。

造作説

現在伝わる改新の詔は、後世の律令国家の成立を説明するために、編纂時に大きく作られたとする考え方。

改革実施を重視する見方

詔の文章には後世の表現が含まれているとしても、645年以降に実際の政治改革が進んでいたことを重視する考え方。

山川出版社の『日本史小辞典』では、改新の詔に大宝律令の用字や条文が反映されている点を指摘する一方、645年や646年の別の詔にも同様の政策が確認できることから、詔の存在自体は事実とみる説明がなされている。

また、奈良県立万葉文化館の「万葉百科」も、地方行政改革のうち評の設置などは実施が確実視される一方、詔の文面には編纂時の文飾が指摘されていると解説している。

すべてが作り話だったわけではない

ここで重要なのは、改新の詔の文面に疑問があることと、大化の改新そのものが存在しなかったことは別問題だという点である。

645年の乙巳の変は歴史上の政変として確認されており、その後に政治改革が進められたことも複数の史料から検討されている。

木簡などの出土資料は、文献だけでは見えにくい地方行政の変化を明らかにしている。

例えば、699年の木簡に残る「評」の文字は、当時の行政実務がどのような制度に基づいていたかを示す具体的な証拠だ。

歴史研究では、後世に編纂された歴史書の文章だけでなく、木簡、戸籍、金石文などを照合することが欠かせない。

大化の改新をめぐる研究の面白さは、まさにこの文献史料と考古資料の突き合わせにある。

【大化の改新と大宝律令の違い】日本の律令国家に与えた歴史的影響

大化の改新と大宝律令は、学校の歴史学習でも混同されやすい。

しかし、両者は同じものではない。

大化の改新は、645年の政変をきっかけに始まった一連の政治改革であり、大宝律令は、その後に整えられた国家制度を法律として体系化したものである。

大化の改新は国家体制を変える出発点

大化の改新が目指したのは、豪族ごとに分かれていた土地・人民の支配を、天皇中心の統一的な国家体制へ移行させることだった。

一方、大宝律令は701年に制定され、律令国家の仕組みを具体的な法制度として整備した。

「律」は刑罰に関する規定、「令」は行政や政治運営に関する規定を指す。

つまり、大化の改新が国家改革の方向性を示したのに対し、大宝律令は国家を運営するための制度を法的に整えたものと理解するとわかりやすい。

2つの違いを比較

比較項目 大化の改新 大宝律令
時期 645年以降 701年
中心的な内容 政治・社会制度の改革 律令による国家制度の整備
政治の仕組み 天皇中心の中央集権化を目指す 中央官制や地方行政などを法制化
土地制度 公地公民・班田収授を目指す 班田収授などの制度を本格的に整備
人民管理 戸籍・計帳の整備を進める 人民把握と税・労役の制度を体系化
税制度 従来の賦役の見直しを目指す 租庸調などの制度を確立
歴史的な位置づけ 律令国家形成の出発点 律令国家の制度的な完成を進める節目

このように、大化の改新と大宝律令は、約半世紀以上にわたる国家形成の過程でつながっている。

大化の改新が後世の日本に残したもの

大化の改新の歴史的影響は、大きく3つに整理できる。

1.天皇中心の国家体制が発展した

有力豪族の個別的な支配から、中央政府が全国を統括する政治体制へと進む契機になった。

2.行政制度と税制度の基礎が整った

国・評などの地方行政組織、戸籍、班田収授、租税制度が発展し、律令国家の運営を支える基盤となった。

3.地方社会と国家の関係が変化した

それまで地域の有力者が担っていた人民支配や徴税が、国家の制度に組み込まれていった。ただし、実務を担ったのは在地の有力者でもあり、従来の権力関係がすべて消滅したわけではない。

一方で、中央集権化によって農民の税や労役の負担が増す側面もあった。

また、土地制度も永久に固定されたわけではない。743年の墾田永年私財法によって、新たに開墾した土地の私有が認められるようになるなど、後の時代には土地政策も変化していく。

この点からも、大化の改新は完成した制度を一度に導入した出来事ではなく、日本の国家体制が長い時間をかけて変化する出発点だったと理解できる。

【よくある誤解】大化の改新について知っておきたい歴史のポイント

大化の改新は学校教育でも重要なテーマだが、短い年表や暗記中心の学習では、出来事の意味を取り違えやすい。

特に注意したいのは次の3点だ。

誤解1:645年にすべての改革が完成した?

これは正確ではない。

645年は乙巳の変が起きた年であり、政治改革が始まる重要な節目だ。改新の詔は『日本書紀』によれば646年に出された。

戸籍や地方行政、班田収授、税制度などは、その後も段階的に整備された。701年の大宝律令は、その長い過程における重要な到達点である。

誤解2:蘇我氏は一族全員が滅亡した?

乙巳の変で倒れたのは、蘇我蝦夷・入鹿を中心とする本宗家である。

蘇我氏の一族すべてが一度に消滅したわけではなく、政治的な立場や新政権との関係は人物ごとに異なっていた。

誤解3:公地公民制によって私有地はすぐになくなった?

公地公民制は国家による土地・人民支配を目指す理念だった。

しかし、実際の地方支配では旧来の有力者が引き続き行政に関わるなど、従来の社会構造も残った。

また、土地の調査や人民の登録には時間が必要であり、全国で一律に制度が機能するまでには段階があった。

歴史の理解を深めるための判断基準

大化の改新に関する情報を読むときは、次の3つを区別すると理解しやすい。

- 事件の事実: 645年の乙巳の変で何が起きたのか。
- 政策の方針: 646年の改新の詔は何を目指したのか。
- 制度の実態: 戸籍・班田・租庸調などは、いつ、どのように運用されたのか。

この3つを混同しないことが、大化の改新の歴史的な意味を正しく理解する近道である。

【大化の改新で何が変わったのか】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:大化の改新で一番大きく変わったことは何ですか?
A1:豪族が土地や人民を個別に支配する仕組みから、天皇を中心とする国家が土地・人民を統一的に管理する仕組みへ転換しようとしたことです。公地公民制や地方行政、戸籍、税制度の改革がその中心でした。

Q2:大化の改新は645年と646年のどちらですか?
A2:645年は中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を倒した乙巳の変が起きた年です。646年は『日本書紀』に改新の詔が記された年です。大化の改新は、この政変から始まる一連の改革を指します。

Q3:公地公民制とは簡単にいうと何ですか?
A3:土地と人民を豪族の私的な支配から国家の管理下に移そうとする考え方です。土地を国家が管理し、人民を公民として把握することを目指しました。ただし、実際にすべての土地と人民が一度に国家の直接管理下に入ったわけではありません。

Q4:班田収授法は大化の改新で始まったのですか?
A4:班田収授法につながる方針は646年の改新の詔に記されています。ただし、本格的な制度整備と運用は701年の大宝律令制定以降です。戸籍に基づいて口分田を支給し、一定の条件で返還させる制度でした。

Q5:大化の改新と大宝律令は何が違いますか?
A5:大化の改新は645年以降に進められた政治改革の総称で、大宝律令は701年に制定された法典です。大化の改新が律令国家形成の出発点であるのに対し、大宝律令はその国家制度を法律として体系化したものです。

Q6:改新の詔は本当に646年に出されたのですか?
A6:『日本書紀』は646年正月に出されたと記しています。ただし、詔文には701年の大宝律令以降の制度や用語が反映されている可能性が指摘されています。実際の詔の存在を認めつつ、編纂時の修飾を考える潤色説などがあり、史料の評価は研究上の論点になっています。

まとめ:大化の改新は日本の国家体制を変えた長期改革だった

大化の改新で何が変わったのかを一言で表すなら、豪族を中心とする分散的な支配から、天皇を中心とする中央集権的な国家体制へ移行する大きな転換が始まったことである。

645年の乙巳の変では、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を倒し、新しい政治体制への道を開いた。続いて孝徳天皇の時代に改革が進められ、646年の改新の詔には公地公民制、地方行政、戸籍・班田収授、税制度の整備という基本方針が示された。

その後、670年の庚午年籍、689年の飛鳥浄御原令、701年の大宝律令などを通じて、改革の方向性は具体的な制度へと発展していった。

一方、『日本書紀』の改新の詔には、後世の律令制度を反映した可能性があり、すべての政策が646年に完成していたわけではない。木簡や戸籍などの考古学的・文献学的資料を照らし合わせることで、当時の制度の実態が少しずつ明らかになっている。

【プロの結論】 大化の改新を理解するうえで最も大切なのは、「645年に蘇我氏を倒した」という政変の知識だけで終わらせないことだ。政治権力の交代、土地と人民の管理、行政組織の整備、税制度の確立という4つの変化をつなげて考える必要がある。

大化の改新は、完成した律令国家そのものではなく、その国家を生み出すための出発点だった。645年の政変から701年の大宝律令までを一つの歴史的な流れとして捉えると、日本古代史における大化の改新の本当の重要性が見えてくる。