【1. うなぎと平賀源内の関係とは?有名な「本日土用丑の日」の逸話】
平賀源内説は、夏場にうなぎが売れず困っていた店主が、博学で知られた源内に販売方法を相談したという話から始まります。
源内は、丑の日に「う」の付く食べ物を食べると夏負けしないという言い伝えに着目し、「本日土用丑の日」と書いた紙を店頭に掲げるよう勧めたとされています。
その店が繁盛し、ほかのうなぎ屋も同じ宣伝方法を取り入れたことで、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣が広まった、という筋書きです。
平賀源内はどのような人物だったのか

平賀源内は、1728年に讃岐国(現在の香川県)で生まれ、1779年に亡くなった江戸時代の博物学者・蘭学者・発明家です。
本草学、鉱山開発、戯作、浄瑠璃、絵画など幅広い分野で活動し、エレキテルの復元でも知られています。
既存の常識にとらわれず、新しい知識や技術を積極的に取り入れた人物でした。
こうした多才さや機知に富んだ人物像が、うなぎ屋の販売促進を助けたという逸話と結び付いた背景の一つと考えられます。
ただし、源内が実際にうなぎ屋の広告を考案したという直接的な記録は、現在知られていません。
「本日土用丑の日」は本当に源内が考えたのか

ここが、この逸話を検証するうえで最も重要なポイントです。
源内がうなぎ屋に助言したという話は広く知られていますが、本人の日記や同時代の書簡、当時の店の営業記録などによって、その出来事が確認されているわけではありません。
さらに、後述する1822年の『明和誌』にも、一般に紹介される源内と店主のやり取りは記されていません。
国立国会図書館の資料や江戸文化に関する解説を見ても、土用の丑の日の発案者については諸説が残されています。
つまり、源内が実際に広告を考案したという説明と、源内が活躍した時代にうなぎを食べる習慣が広まったという歴史的事実は、分けて考える必要があります。
【2. 明和誌(1822年)に記された土用の丑の日の史料的根拠】

平賀源内説を検証するうえで、欠かせない史料が『明和誌』です。
『明和誌』は青山白峰(青山白峯とも表記)の随筆で、文政5年にあたる1822年ごろの記録として知られています。
江戸時代の風俗や暮らし、世間の出来事などを伝える資料であり、土用の丑の日とうなぎの関係を考える重要な手掛かりです。
『明和誌』に残された実際の記述
同書には、丑の日とうなぎについて次の記述があります。
「近き頃、寒中丑の日にべにをはき、土用に入り、丑の日にうなぎを食す。寒暑とも家毎になす。安永・天明の頃よりはじまる」
この記述は、後世の辞典にも『明和誌』からの引用として掲載されています。
現代語にすると、次のような意味です。
- 寒中の丑の日には紅を塗る習慣がある。
- 土用に入った丑の日にはうなぎを食べる。
- 寒い時期も暑い時期も、それぞれの習慣が家々で行われている。
- こうした風習は安永・天明のころから始まった。
ここで注目したいのは、最後の「安永・天明の頃よりはじまる」という部分です。
安永は1772~1781年、天明は1781~1789年に当たります。
つまり、『明和誌』は、土用の丑の日にうなぎを食べる風習が、少なくとも18世紀後半には広まり始めていたことを示す記録なのです。
『明和誌』は平賀源内説を証明する資料ではない
インターネット上では、『明和誌』に平賀源内がうなぎ屋へ助言した話が書かれていると説明されることがあります。
しかし、実際に引用される上記の記述には、平賀源内の名前も、うなぎ屋の相談も、店頭の宣伝文句も登場しません。
記録されているのは、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣と、その成立時期についてです。
この違いは非常に重要です。
『明和誌』が裏付けるのは、江戸時代後期に至る前から、土用の丑の日とうなぎが結び付いていたということです。
源内がその習慣を考案したことまで証明するものではありません。
また、源内の没年は1779年です。『明和誌』が示す安永・天明期は源内の生前と没後の両方にまたがるため、年代が重なることだけを根拠に発案者と判断することもできません。
【3. 江戸買物独案内(1824年)と春木屋善兵衛説を比較】
平賀源内説と並んで注目されるのが、江戸のうなぎ屋「春木屋善兵衛」にまつわる説です。
この説を考える際に重要なのが、1824年、文政7年に刊行された『江戸買物独案内』です。
江戸買物独案内に記された「丑ノ日元祖」
『江戸買物独案内』は、中川芳山堂が編集した江戸の買い物案内書です。
国立歴史民俗博物館の資料解説によると、同書には飲食店を含む2622軒もの店舗が掲載されています。
現在でいう商店ガイドやグルメガイドに近い性格を持ち、当時の江戸の商業活動を知るための貴重な資料です。
その飲食店の項目には、神田和泉橋通にあったうなぎ屋、春木屋善兵衛が掲載されています。
店の広告には、次の文言が確認できます。
「丑ノ日 元祖 かばやき所 神田和泉橋通 春木屋善兵衛」
ここで重要なのは、1824年の時点で、春木屋善兵衛が「丑ノ日元祖」を名乗っていたことです。
つまり、土用の丑の日とうなぎの結び付きが、江戸の商業文化の中で店の宣伝に利用されていたことを示す、具体的な記録といえます。
ただし、この広告だけで春木屋善兵衛が習慣の発案者だったと断定することはできません。
「元祖」という表示は店側の広告上の主張であり、その主張の歴史的な正しさまで証明するものではないからです。
春木屋善兵衛説の有名な逸話
春木屋善兵衛説には、次のような話が伝えられています。
文政年間、春木屋善兵衛のもとに藤堂家から大量のうなぎの蒲焼きの注文が入ったとされます。
そこで善兵衛は、土用の子の日、丑の日、寅の日の3日間に分けて蒲焼きを焼き、それぞれ土瓶などに入れて保存しました。
後日、納品のために確認したところ、丑の日に焼いた蒲焼きだけが色や風味を保っていたというのです。
この出来事から、丑の日に焼いたうなぎには縁起があると考えられ、春木屋が「丑の日元祖」を名乗るようになったという筋書きです。
しかし、1824年の『江戸買物独案内』に記録されているのは「丑ノ日元祖」という広告です。
藤堂家からの注文や3日間の保存実験の詳細まで、同書が証明しているわけではありません。
主要な由来説を比較
| 由来説 | 内容 | 史料から確認できること |
|---|---|---|
| 平賀源内説 | 源内が「本日土用丑の日」の宣伝を勧めた | 直接的な同時代の裏付けは確認されていない |
| 春木屋善兵衛説 | 丑の日に焼いた蒲焼きだけが保存状態を保った | 1824年の広告に「丑ノ日元祖」とある |
| 太田蜀山人説 | 狂歌を使ってうなぎを宣伝した | 発案を直接証明する確実な記録は明らかでない |
| 民間伝承説 | 丑の日に「う」の付くものを食べると夏負けしない | 『明和誌』には丑の日のうなぎ食と風習の記録がある |
この比較から見えてくるのは、習慣が存在した証拠と、誰が習慣を始めたかという証拠は別物だということです。
【4. 太田蜀山人説とは?平賀源内説との違い】
土用の丑の日の由来には、平賀源内以外にも、大田南畝(おおたなんぽ)という人物の名前が登場します。
大田南畝は、蜀山人(しょくさんじん)という別号でも知られる江戸時代の狂歌師・文人です。
蜀山人が狂歌でうなぎを宣伝したという説
太田蜀山人説では、うなぎ屋から繁盛の方法を相談された蜀山人が、うなぎを食べると薬になるという趣旨の狂歌を作り、店の宣伝に利用したとされています。
平賀源内説と共通するのは、文化人の知名度や言葉の力を利用して、夏場のうなぎの販売を促進したという点です。
一方、両者の違いは宣伝の方法にあります。
- 平賀源内説:店頭に「本日土用丑の日」と掲示する。
- 太田蜀山人説:狂歌を作り、うなぎの効能を印象付ける。
ただし、蜀山人説についても、本人が実際に広告用の狂歌を作ったことを確実に証明する史料は明らかになっていません。
東京都公文書館の江戸文化に関する解説でも、平賀源内と大田南畝の両者が発案者として挙げられる一方、由来は確定していないとされています。
なぜ複数の文化人が発案者として登場するのか
江戸時代には、出版や広告、狂歌、看板などを通じて、言葉を商売に活用する文化が発達していました。
知名度のある文化人が店の宣伝に協力するという筋書きは、当時の社会状況にもなじみます。
しかし、実際に誰が最初に宣伝したのかは別問題です。
後世の人々が、江戸の著名な文化人の機知と商売の結び付きを説明するために、源内説や蜀山人説を語り継いだ可能性も考えられます。
どちらか一方を確定した起源とするだけの史料は、現在のところ確認されていません。
【5. 江戸時代のうなぎ文化と土用の丑の日が定着した理由】
土用の丑の日の由来を理解するには、当時のうなぎ文化そのものにも目を向ける必要があります。
江戸時代のうなぎは、単なる夏の行事食ではありませんでした。
蒲焼きの調理法が発達し、専門店が増え、外食文化の中で広く親しまれる料理へと成長していきました。
江戸前うなぎと蒲焼きの発展
国立国会図書館の展示資料によると、うなぎの蒲焼きは1668年刊行の料理書『料理塩梅集』にも登場しています。
さらに、1775年刊行の方言辞典『物類称呼』には、浅草川や深川付近で獲れたうなぎを「江戸前」と呼んで珍重していたことが記されています。
江戸のうなぎ料理は、こうした地域の食材と調理技術によって独自の発展を遂げました。
江戸風の蒲焼きは、背開きにしたうなぎを一度蒸してから焼く調理法が特徴です。
脂を落として身を柔らかくし、たれを付けて焼き上げる方法は、現在の関東風うなぎ料理にも受け継がれています。
うなぎめしから現代のうな丼へ
うなぎ文化を語るうえで欠かせないのが、うなぎめしの登場です。
文化年間(1804~1818年)ごろ、芝居小屋の金主だった大久保今助が、冷めにくいように蒲焼きをご飯の間に挟んで出前させたことが、うなぎめしの始まりと伝えられています。
ご飯の熱で蒲焼きが冷めにくくなり、たれが飯にも染み込むという利点がありました。
その後、うなぎめしは江戸の人々に広まり、現在のうな丼につながる食文化を形成していきます。
味だけでなく、食べやすさや提供方法まで工夫されたことが、うなぎ料理の普及を支えました。
土用の丑の日が商業文化として定着した背景
江戸時代後期のうなぎ屋は、すでに競争のある外食産業の一部でした。
1824年の『江戸買物独案内』に春木屋善兵衛が掲載されていることや、1852年の『江戸前大蒲焼番付』に200を超える店舗が載っていることからも、うなぎ商売の広がりがうかがえます。
特定の日に需要を集中させる宣伝は、こうした商業環境とも相性がよかったと考えられます。
さらに、夏の土用は暑さが厳しく、食欲や体力が落ちやすい時期です。
栄養のあるうなぎを食べるという行為には、季節の健康管理という意味もありました。
したがって、土用の丑の日の定着には、商売上の工夫だけでなく、食材の栄養価や季節の習慣も関係していたと考えられます。
【6. 土用の丑の日の本当の由来を見極める3つのポイント】
ここまでの記録を整理すると、一般に知られている逸話と、歴史的に確認できる事実の間には違いがあります。
ポイント1:土用は夏だけではない
土用とは、もともと季節の変わり目に設けられた期間です。
立春・立夏・立秋・立冬の前に、それぞれ約18日間設けられています。
したがって、土用は本来、年に4回あります。
現在、一般的に「土用の丑の日」と呼ばれるのは夏の土用の丑の日です。
その期間中に十二支の丑に当たる日が巡ってくるため、年によって日付が変わります。
また、期間中に丑の日が2回ある場合は、最初を一の丑、2回目を二の丑と呼びます。
ポイント2:「う」の付く食べ物という言い伝え
丑の日に「う」の付くものを食べると夏負けしないという言い伝えは、源内説を説明する際によく登場します。
うなぎのほかにも、うどん、瓜、梅干しなど、さまざまな食べ物が例に挙げられます。
この考え方の面白さは、十二支の丑という暦の要素と、食べ物の名前を組み合わせている点です。
ただし、「う」の付く食べ物を食べる風習が、いつ、どの地域で、どの程度一般的だったのかは、個別に検証する必要があります。
ポイント3:源内説は後世に広まった可能性がある
プレナスの弁当文化に関する展示解説では、源内が「今日 うしの日」と書いた紙を店に貼るよう勧めたという話について、同時代の記録が見当たらないことを指摘しています。
また、源内説は大正期になってから広まった商売上の創作である可能性にも触れています。
同展示では、1840年の『江戸年中風俗之絵』に「今日 うしの日」の貼り紙が描かれていることも紹介されています。
これは江戸時代後期に、うしの日とうなぎの宣伝が結び付いていたことを考える手掛かりです。
ただし、その絵に描かれた広告が平賀源内の考案によるものだと証明されているわけではありません。
【プロの結論】発案者探しよりも、記録の年代と性格を見る
歴史的な由来を調べるときは、次の3つを区別することが大切です。
1. その風習が存在したことを記録する史料。
2. その風習を始めた人物について記録する史料。
3. 後世に語り継がれた逸話や伝承。
今回のテーマでは、『明和誌』が1番目に当たり、『江戸買物独案内』は2番目ではなく、当時の商店が「丑ノ日元祖」を名乗ったことを示す商業資料です。
平賀源内説や春木屋善兵衛説は、それぞれ興味深い由来伝承ですが、発案者を確定するには至っていません。
最も確実にいえるのは、18世紀後半に土用の丑の日とうなぎを食べる習慣が広まり、19世紀前半には江戸の商業文化に定着していたということです。
【うなぎと平賀源内に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:土用の丑の日にうなぎを食べる習慣を広めたのは平賀源内ですか?
A1:平賀源内がうなぎ屋の宣伝を考案したという有名な説があります。ただし、本人が実際に宣伝したことを証明する同時代の直接的な史料は確認されていません。
Q2:明和誌には平賀源内の逸話が書かれていますか?
A2:一般に引用される『明和誌』の記述には、源内の名前や広告の逸話はありません。記されているのは、土用の丑の日にうなぎを食べる風習が安永・天明のころから始まったという内容です。
Q3:春木屋善兵衛は本当に土用の丑の日の元祖ですか?
A3:1824年の『江戸買物独案内』に「丑ノ日元祖」と掲載されています。ただし、店が元祖を名乗っていた事実と、実際に習慣を発案した事実は区別する必要があります。
Q4:太田蜀山人説とは何ですか?
A4:狂歌師の大田南畝(蜀山人)が、うなぎの効能を題材にした狂歌を作って宣伝したという説です。ただし、本人の発案を確実に証明する史料は明らかになっていません。
Q5:土用の丑の日はなぜ毎年日付が変わるのですか?
A5:土用は季節の変わり目に設けられた期間であり、丑の日は十二支の順番で12日ごとに巡ってくるためです。土用の期間内にある丑の日を数えるため、毎年日付が変わります。
Q6:土用の丑の日はうなぎ以外を食べてもよいのですか?
A6:もちろんです。「う」の付く食べ物を食べるという言い伝えにちなみ、うどんや瓜などを食べることもあります。うなぎだけが唯一の選択肢というわけではありません。
まとめ:うなぎと平賀源内の関係は伝説と史実を分けて理解する
うなぎと平賀源内の関係は、「本日土用丑の日」という有名な宣伝の逸話によって広く知られるようになりました。
しかし、1822年の『明和誌』が伝えているのは、安永・天明期から土用の丑の日にうなぎを食べる習慣があったという記録です。源内がその風習を考案したという話ではありません。
また、1824年の『江戸買物独案内』には、春木屋善兵衛が「丑ノ日元祖」を名乗っていた記録が残っています。これは江戸のうなぎ商業の発展を知るうえで重要な証拠です。
平賀源内説、春木屋善兵衛説、太田蜀山人説のいずれも、発案者を確定できる決定的な証拠はありません。
一方で、江戸時代後期に土用の丑の日とうなぎが強く結び付いていたことは、複数の歴史資料から確認できます。
2026年の今も続くこの食文化は、単なる一人の発明家のアイデアではなく、江戸の人々の季節感、食への知恵、商人の工夫が重なって育まれたものです。
うなぎを食べる際には、源内の有名な逸話を思い浮かべながら、江戸の町で育まれた食文化の歴史にも目を向けてみてはいかがでしょうか。