【なぜ学校に建てられた?】二宮金次郎像の設置理由と普及の歴史

目次

二宮金次郎像が学校に設置された最大の理由は、働きながら学ぶ姿を通して、子どもたちに勤勉さや学問の価値を伝えるためだった。

ただし、全国の学校に同じ命令が出され、一斉に設置されたわけではない。普及の背景には、修身教育、地域社会の寄贈活動、銅像製造業者の販売活動など、複数の要因が重なっていた。

最初の二宮金次郎像は1924年に登場

二宮金次郎像

国立国会図書館のレファレンス協同データベースに掲載された栃木県立図書館の調査回答によると、学校に設置された最初期の二宮金次郎像は、1924年(大正13年)、愛知県豊橋市の前芝小学校に置かれたものとされる。

この像は現在よく知られる銅像ではなく、セメント製だった。右手に本を持ち、左肩に背負いかごを掛けた姿だったという。

その後、1925年には愛知県岡崎市で銅像の販売パンフレットが確認され、富山県高岡市でも1928~1929年ごろに銅像の製作が始まった。

つまり、学校の金次郎像は教育思想だけでなく、地域の石材業者や鋳物業者による製造・販売活動とも結びついていた。

昭和初期に全国へ広がった背景

普及が進んだのは昭和初期である。

岡山県内の金次郎像を調査した2008年度の教育文化活動助成事業「二宮金次郎像の再考」では、地域ごとの設置記録や新聞記事、学校沿革史などが調べられた。

同調査によると、岡山県では1929年に寄島東小学校・寄島西小学校へ銅像が設置された。1933年には伊部小学校に備前焼の陶像が登場し、その後、県内の小学校にも陶像が広がった。

普及を後押しした時期として挙げられているのが、次の記念年である。

- 1928年:昭和天皇の御大典記念
- 1935年:二宮尊徳没後80周年
- 1936年:生誕150周年
- 1940年:皇紀2600年記念

特に備前焼の陶像は銅像よりも安価に製作できたため、地域の学校にも設置しやすかった。

この調査から見えてくるのは、金次郎像が単なる教育行政の産物ではなく、地域の寄贈文化や地場産業とも深く関わっていたという事実だ。

文部省が全国の学校に設置を命令したという説は本当?

金次郎像については「国が全国の小学校に設置を命じた」という説明を見かけることがある。

しかし、岡山県の調査では、寄贈者や製作者、設置時期を学校ごとに追跡しており、地域の有志や事業者による設置の実態が確認されている。

少なくとも、全国一律の設置命令によって普及したと説明するのは正確ではない。

学校ごとの沿革史や寄贈記録を確認すると、同じ金次郎像でも設置された経緯は異なる。ここに、地域史として調べる面白さがある。

【人物の生涯を検証】二宮尊徳の功績と金次郎像が生まれた背景


二宮尊徳(にのみやそんとく)

1787年~1856年/江戸時代後期の農政家・思想家
通称は二宮金次郎。農村復興や財政再建に取り組み、報徳思想と報徳仕法を広めた人物。

二宮尊徳は1787年、相模国栢山村(現在の神奈川県小田原市)に生まれた。

幼少期は比較的裕福な農家で育ったが、酒匂川の氾濫によって田畑が荒廃。14歳で父を、16歳で母を亡くし、一家離散という苦境に直面する。

その後、伯父の家に身を寄せながら農作業に励み、わずかな土地を利用して作物を育てた。

この経験から生まれた考え方が、後に報徳思想の重要な要素となる「積小為大」である。

二宮尊徳の主な功績

尊徳の功績は、少年時代の努力だけではない。

青年期には家の再興を果たし、小田原藩家老の服部家の財政再建にも取り組んだ。

さらに、生活に困窮する藩士を支えるため、互助的な金融制度である「五常講」を始めた。

1823年には一家で下野国の桜町領(現在の栃木県真岡市周辺)に移住し、荒廃した農村の再建に着手。10年近い取り組みを経て復興を実現した。

その後も北関東を中心に農村復興を進め、1842年には幕府に登用される。1853年には日光神領の復興を命じられたが、1856年10月20日、現在の日光市今市で70歳の生涯を閉じた。

報徳博物館の解説では、尊徳の報徳仕法が指導された地域は、最終的に600か村に達したとされる。

二宮尊徳の生涯と金次郎像の関係が分かる年表

年代 人物・資料・出来事 歴史的な意味
1787年 二宮尊徳誕生 栢山村で金治郎と名づけられる
1791年 酒匂川の決壊 家の田畑が大きな被害を受ける
1800~1802年 父母が相次いで死去 金次郎は伯父の家に身を寄せる
1803年 積小為大の考え方を得る 小さな収穫を積み重ねる実践
1814年ごろ 五常講を試みる 金融面での相互扶助
1823年 桜町領の復興に着手 農村再建の本格化
1831年 桜町領の復興が進展 報徳仕法の成功例となる
1842年 幕府に登用 農村復興の活動が広域化
1856年 尊徳死去 高弟の富田高慶が『報徳記』をまとめる
1891年 幸田露伴『二宮尊徳翁』 歩きながら本を読む少年像が挿絵に登場
1924年 豊橋市の小学校に像を設置 学校における金次郎像の普及が始まる
1930年代 全国各地に普及 教育、地域寄贈、製造業が関係

尊徳の教え「報徳思想」とは?

報徳思想とは、あらゆるものに備わる価値を認め、その徳を生かして社会に役立てるという考え方である。

代表的な考え方には、次の3つがある。

- 積小為大: 小さな努力を積み重ね、大きな成果につなげる。
- 分度: 収入や生産力に応じた適切な範囲を定める。
- 推譲: 自分の余力や利益を将来や他者のために譲る。

特に重要なのは、尊徳の思想が単純な節約や我慢を意味していないことだ。

限られた資源を有効に活用し、個人の生活再建と地域全体の発展を両立させようとする実践的な思想だった。

報徳博物館によれば、その考え方は後世にも受け継がれ、渋沢栄一や豊田佐吉、松下幸之助などの実業家・経営者にも影響を与えたとされる。

【歩きながら本を読むのは嘘?】薪を背負う姿に隠された真相

二宮金次郎像について、最も誤解されやすいのが「歩きながら本を読んでいた」という部分だ。

実は、尊徳が実際に歩きながら本を開いて読んでいたことを示す記述とは異なる解釈が存在する。

『報徳記』に記されたのは読書ではなく暗唱

2016年3月、J-CASTニュースが小田原市の尊徳記念館に取材した際、同館は原典とされる『報徳記』の記述について説明している。

問題となるのは「誦(しょう)」という表現だ。

これは、文章を声に出して唱えたり、暗記した内容をそらんじたりする意味を持つ。

つまり、薪を背負って歩きながら本を開いていたのではなく、学んだ内容を頭の中で繰り返し暗唱していたという解釈が適切になる。

この違いは小さくない。

金次郎像の姿だけを見ると、移動中も本を読むことが勤勉さの象徴に見える。しかし、実際に伝えられている行動は、労働の合間に学びを継続する姿だった。

なぜ本を持った姿になったのか?

歩きながら本を読む金次郎の姿が初めて描かれたのは、1891年に出版された幸田露伴の児童向け伝記『二宮尊徳翁』の挿絵とされている。

つまり、尊徳の少年時代から約100年後に、現在よく知られるビジュアルが登場したことになる。

なぜ本を持つ姿に変更されたのか。

尊徳記念館は、勤労と勤勉という2つの概念を子どもたちに分かりやすく伝えるためだったと分析している。

本を手に持たせることで、学問に励む姿が視覚的に理解しやすくなったのだ。

ただし、これは後世の教育的な表現であり、少年時代の実際の行動をそのまま記録した写真のようなものではない。

薪を背負って読書する意味は何だったのか?

金次郎像の象徴性は、薪と本の組み合わせにある。

像に描かれたもの 表現する意味
薪・背負いかご 家計を支える労働、生活への責任
本 学問、知識、自己研さん
歩く姿 努力を継続すること
少年の姿 幼いころからの学びと成長

薪を背負う姿は、勉強だけに専念できる環境ではなく、生活のために働きながら知識を身につける姿を象徴している。

ここで伝えられているのは、睡眠時間を削って勉強することや、危険を冒してまで本を読むことではない。

日々の仕事と学びを両立させる姿勢こそ、金次郎像の本来の教育的な意味だったと考えられる。

【撤去される理由とは?】座像と立像の違い、歩きスマホ批判の背景

二宮金次郎像は、かつて学校の定番だった一方、設置場所から撤去されたり、座って本を読む姿に変更されたりする例も出ている。

その背景には、教育に対する価値観の変化と、安全面への配慮がある。

撤去理由① 歩きスマホを連想させる

2016年3月、J-CASTニュースは金次郎像の撤去や座像の設置を報じた。

当時、保護者などから問題視されていたのが、歩きながら本を読む姿だった。

子どもが像をまねて、歩きながら本を読んだり、スマートフォンを操作したりすることへの懸念である。

また、勤勉という価値観をそのまま子どもに教えることが時代に合っていないという意見も紹介された。

一方、金次郎像は危険な行動を推奨するために設置されたものではないとして、撤去に反対する声もあった。

ここで重要なのは、像そのものの教育的な意味と、現代の安全指導との間にずれが生じたことだ。

撤去理由② 学校の統廃合や施設の再編

もう一つの背景が学校施設の変化である。

少子化などに伴って学校が統廃合されると、校舎や校庭に残された記念物の扱いも問題になる。

二宮金次郎像は、学校の備品という側面だけでなく、地域住民から寄贈された歴史的な品という側面も持っている。

そのため、校舎の解体後に像だけが残るケースでは、保存するのか、別の場所へ移すのか、売却するのかといった判断が必要になる。

2026年の周南市の事例は、こうした学校施設の再編と地域の記憶の問題が重なったケースである。

座像と立像の違いを比較

比較項目 立像 座像
姿勢 立って歩く姿 座って本を読む姿
代表的な表現 薪を背負う 腰を下ろして学ぶ
教育的な意味 勤労と学問の両立 落ち着いて学ぶ姿勢
安全面の論点 ながら歩きとの連想 歩行をまねる懸念を抑えやすい
設置例 全国の小学校など 日光市の南原小学校など

2016年に登場した南原小学校の座像

注目されたのが、栃木県日光市の南原小学校に2016年3月1日に設置された座像である。

この像は、地元団体「報徳道研修 いまいち一円会」が寄贈したものだった。

同団体は、歩きスマホの危険性が問題視される時代背景を踏まえ、歩きながら本を読む姿よりも座像が適切と判断したとJ-CASTニュースに説明している。

また、座っていても金次郎の勤労・勤勉の精神は伝えられるという考え方を示した。

さらに、戦後には交通安全上の理由から、座って本を読む姿や、本ではなく草鞋を持つ姿の金次郎像も登場していたという。

二宮金次郎像の評判は賛成・反対に分かれる

金次郎像に対する評価は、大きく分けて次のような論点がある。

肯定的な評価

- 地道な努力や学習の大切さを伝えられる。
- 地域の歴史や学校の思い出を残せる。
- 子どもに尊徳の功績を知ってもらうきっかけになる。
- 日本の近代教育史を象徴する文化的な存在である。

否定的・慎重な評価

- 歩きながら本を読む姿が安全教育と矛盾する。
- 勤勉さを過度に強調する教育に違和感がある。
- 現代の子どもに伝えたい学び方と像の姿が一致しない。
- 老朽化した像の維持や管理に費用がかかる。

ただし、立像を撤去すれば尊徳の思想まで否定することになるわけではない。

座像に変更することも、像を別の場所に移すことも、教育的な価値を残すための選択肢になり得る。

大切なのは、形だけを守ることではなく、何を伝えるためにその像が存在しているのかを考えることだ。

【2026年最新】周南市が二宮金次郎像を売却!21万9,000円の結果を検証

2026年10月22日 結果公表

2026年の二宮金次郎像をめぐるニュースで注目されたのが、山口県周南市による売却である。

周南市は、廃校となった旧菊川小学校中野分校跡地に残されていた金次郎像について、2026年10月に希望者を募り、見積合わせによる売却を実施した。

そして10月22日、市が公表した結果は、金井金属工業株式会社による21万9,000円での落札だった。

売却された金次郎像の基本情報

周南市の公式発表によると、対象となった像の概要は次のとおり。

項目 公式発表の内容
所在地 山口県周南市大字中野318-2
設置場所 旧菊川小学校中野分校跡地
設置時期 昭和28年(1953年)ごろ
像の高さ 約70センチ
台座の高さ 約6センチ
素材 不明。外観から銅製と推測
重量 不明
状態 全体的にさびや汚れあり
最低見積価格 1万円(消費税別)
落札者 金井金属工業株式会社
落札価格 21万9,000円

なぜ周南市は売却を決めたのか?

今回の売却理由は、二宮尊徳の思想や像の教育的価値を否定したためではない。

周南市の公式発表では、廃校となった小学校の跡地に長年残されていた像について、財産の有効活用を目的に売却すると説明している。

地域ニュースの報道によると、校舎はすでに撤去され、像だけが残っていた。市として今後活用する予定もなかったという。

つまり、今回の判断は学校施設の再編後に残った市有財産の整理という性格が強い。

1万円の予定価格に対して21万9,000円で落札

今回の売却で目を引くのが、最低見積価格と落札価格の差である。

- 最低見積価格:1万円
- 落札価格:21万9,000円
- 最低価格との差額:20万9,000円
- 最低価格の21.9倍で落札

この価格差からも、単なる不要品としてだけでなく、歴史的な価値やコレクション対象として関心を集めた可能性がうかがえる。

ただし、落札価格だけで文化財としての評価額や金属としての市場価値が確定するわけではない。

売却後はどうなる?素材や寄贈者も不明だった

興味深いのは、周南市が公表した質問回答の内容だ。

像の材質について、市は外観から銅製と思われるものの、設置当時の資料がなく、詳しい調査もしていないと回答している。

重量や構造についても不明だった。

さらに、1953年ごろに設置されたという情報はあるものの、寄贈者や製作者、設置の具体的な経緯を確認できる資料は残っていなかった。

売却対象は像と像側の台座部分で、石柱は対象外。購入者には代金の納入後、市職員の立ち会いのもとで引き渡され、速やかな撤去が求められる。

売却後の設置場所や用途、再譲渡について特別な制限は設けられていない。

この点からも、今回の売却は単なる処分ではなく、長年学校に置かれてきた歴史的な像の所有者が変わる出来事だった。

【現在も残っている?】二宮金次郎像の残存状況と尊徳記念館・報徳記

では、2026年現在、二宮金次郎像は全国の学校からなくなってしまったのだろうか。

答えは、そうではない。

今も学校や地域の施設などに残る像がある一方、撤去や移設、座像への変更も進んできた。ただし、全国の残存数を一律に把握できる最新の公的統計は確認できない。

全国に何体残っている?岡山県の調査が示す実態

参考になるのが、2008年度に実施された岡山県内の調査である。

「二宮金次郎像の再考」では、岡山県内の小学校421校にアンケートを送り、307校から回答を得た。

その結果、174校、回答校の56.5%に金次郎像が現存していた。

この中には、戦後に設置されたものや、倉庫に保管されているものも含まれる。

調査報告では、廃校や未回答校なども考慮すると、県内に約250基が存在する可能性があると推測している。

一方、東京23区では940校のうち134校で現存が確認され、割合は14.25%だった。

ただし、これは2008年時点の地域調査であり、2026年の全国総数を示すものではない。

この調査から分かるのは、金次郎像が一律に姿を消したわけではなく、地域によって残存状況に差があるということだ。

尊徳記念館と報徳記は何が違う?

二宮金次郎像の背景を深く理解するなら、人物の生涯や思想を伝える資料にも目を向けたい。

特に重要なのが、小田原市の尊徳記念館と、二宮尊徳の伝記である『報徳記』だ。

尊徳記念館

神奈川県小田原市栢山にある施設で、二宮尊徳の生涯や功績、報徳思想に関する資料を展示・公開している。

尊徳の生誕地に関係する資料を通じて、金次郎像だけでは分からない農村復興の取り組みや人物像を学べる。

『報徳記』

『報徳記』は、尊徳自身が書いた自伝ではない。

高弟で相馬中村藩士だった富田高慶が、尊徳の生涯や業績をまとめた伝記である。

1856年の尊徳の死後に書き上げられ、1880年に天覧に供され、1883年には宮内省から刊行された。その後、農商務省や大日本農会からも出版され、広く読まれるようになった。

歩きながら本を読む姿の解釈にも関わる重要な資料であり、金次郎像の歴史を理解するうえで欠かせない存在だ。

2026年も尊徳の功績を伝える活動は続く

2026年10月、小田原市の尊徳記念館では、第66回尊徳祭が開催された。

小田原市の公式案内によると、尊徳の命日である10月20日にちなみ、毎年10月に開催されている行事である。

2026年は10月18日に開催され、生家の特別公開や記念館展示室の無料開放、市内小学校の児童による二宮尊徳学習の成果展示などが予定された。

これは、学校の校庭に像を置くという従来の方法だけでなく、資料館や地域の学習活動を通して尊徳の思想を伝える取り組みが続いていることを示している。

金次郎像を見かけたら確認したい3つのポイント

地域や学校に残る金次郎像を調べる場合、次の情報が役立つ。

1. 設置年月日と寄贈者: 台座の銘文や学校沿革史に記録が残っている場合がある。
2. 像の素材と製作者: 銅像、石像、陶像など、製作地域や時代によって特徴が異なる。
3. 現在の所有者と管理者: 学校、市町村、地域団体など、保存の責任を担う主体を確認する。

こうした情報を調べることで、単なる懐かしい学校の風景だった像が、地域の歴史を伝える資料へと変わる。

【よくある質問】二宮金次郎像に関するFAQ

Q1:二宮金次郎像はなぜ薪を背負って本を読んでいるのですか?

A1:二宮尊徳が少年時代に働きながら学んだという逸話を、子どもにも分かりやすく伝えるためです。薪は勤労、本は学問を象徴しています。

Q2:二宮金次郎は本当に歩きながら読書していたのですか?

A2:『報徳記』の「誦」という記述から、実際には歩きながら学んだ内容を暗唱していたと解釈されています。現在のような読書姿は、1891年の幸田露伴の伝記の挿絵が起源とされています。

Q3:二宮金次郎像が学校から撤去される理由は何ですか?

A3:歩きながら本を読む姿への安全上の懸念、教育観の変化、学校の統廃合や施設管理などが背景にあります。撤去理由は学校や自治体によって異なります。

Q4:座って本を読む二宮金次郎像はいつ登場しましたか?

A4:戦後には交通安全に配慮した座像などが登場しています。2016年3月1日には栃木県日光市の南原小学校に座像が設置され、話題になりました。

Q5:2026年の周南市の二宮金次郎像はいくらで売れましたか?

A5:2026年10月22日に公表された結果では、金井金属工業株式会社が21万9,000円で落札しました。最低見積価格は1万円(消費税別)でした。

Q6:二宮金次郎像は2026年現在も学校に残っていますか?

A6:残っています。ただし、全国の残存数を示す最新の統一統計は確認できません。岡山県では2008年度の調査で、回答した307校のうち174校に現存していました。

Q7:二宮尊徳の思想を学ぶにはどこへ行けばよいですか?

A7:神奈川県小田原市の尊徳記念館や報徳博物館が参考になります。また、尊徳の高弟・富田高慶が著した『報徳記』も重要な資料です。

まとめ:二宮金次郎像が2026年の今も伝える勤労と学びの意味

二宮金次郎像は、単に薪を背負って本を読む少年の銅像ではない。

その背景には、二宮尊徳が実際に経験した貧困や家の再興、農村復興への取り組み、そして報徳思想という実践的な考え方がある。

歩きながら本を読む姿は後世の挿絵によって広まった表現であり、実際には学んだ内容を暗唱していたという解釈が重要なポイントだ。

また、座像への変更や学校からの撤去は、教育のあり方や安全への考え方が変化していることを示している。

2026年10月の周南市の売却事例では、最低見積価格1万円の像が21万9,000円で落札された。廃校跡地に残された像の所有者が変わる一方、小田原市では尊徳祭や資料館を通じた学習活動が続いている。

【プロの結論】

二宮金次郎像の本質は、歩きながら本を読むという外見的なポーズではない。

尊徳が生涯を通して実践したのは、小さな努力を積み重ね、限られた資源を生かし、自分だけでなく周囲の人々や地域全体を豊かにすることだった。

その意味で、金次郎像を残すか撤去するかという議論も、単純な賛否だけでは判断できない。

教育的な価値を重視するなら、座像への変更や解説板の設置、資料館での展示など、時代に合わせた伝え方がある。地域の歴史を重視するなら、寄贈者や設置年月日を調査し、学校の沿革史とともに保存する方法も考えられる。

大切なのは、像の形を守ることだけではなく、そこに込められた思想を次の世代にどう伝えるかだ。

薪を背負った少年の姿が問いかけているのは、昔の人と同じ生活をすることではない。日々の仕事や暮らしの中で学び続け、自分の力を社会に役立てることの意味なのである。


主な参考資料・情報源

- 小田原市「おだわらデジタルミュージアム」「尊徳記念館」
- 公益財団法人報徳福運社「報徳博物館」
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース・栃木県立図書館
- 教育文化活動助成成果報告書「二宮金次郎像の再考」(2008年度)
- J-CASTニュース「二宮金次郎が歩きスマホを誘発する?」(2016年3月2日)
- 山口県周南市「二宮金次郎像を見積合わせにて売払います・結果公表」(2026年10月22日)
- 相馬市「報徳記の原本」
- 小田原市「第66回尊徳祭」(2026年)