東村山と志村けんの絆を徹底解説|音頭・駅前の木と銅像、2026年最新情報
東京都東村山市と志村けんさんの関係は、単に出身地というだけではない。1976年にテレビ番組『8時だョ!全員集合』で披露した「東村山音頭」が全国的な人気を集め、東村山という地名を日本中に広めたことから、志村さんは地元を代表する存在となった。
現在も東村山駅東口には、功績をたたえて植えられた3本のケヤキ「志村けんの木」と、代表的なギャグ「アイーン」のポーズを再現した銅像が残る。2020年には東村山市の名誉市民に選定され、2026年3月29日には七回忌を迎えた。駅周辺では高架化や駅前広場の再整備も進んでおり、記念スポットを取り巻く環境にも変化が生まれている。
ここでは、志村けんさんの生い立ちから東村山音頭の誕生、駅前の記念樹と銅像、名誉市民選定までを時系列で整理する。2026年の現地情報や訪問時の注意点も含め、東村山と志村けんさんが今も深く結び付いている理由を紹介する。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 出身地:志村けんさんは1950年、現在の東京都東村山市に生まれ、高校時代まで地元で過ごした。
- 東村山音頭:1961年に制作された地元の音頭を1976年に『8時だョ!全員集合』でアレンジして披露し、全国的な人気につなげた。
- 2026年の現地情報:東村山駅東口には志村けんの木とアイーン銅像があり、七回忌を迎えた現在も地域のシンボルとして親しまれている。
【出身地との深い縁】志村けんさんと東村山の関係は?生い立ちから全国的スターになるまで

志村けんさんと東村山市の関係を理解するには、まず生まれ育った環境と芸能界での歩みを押さえておきたい。
1950年、現在の東京都東村山市に生まれる
志村けんさんは1950年2月20日生まれ。本名は志村康徳(しむら・やすのり)。東京都東村山市の出身である。
生まれた当時の行政区分は東京都北多摩郡東村山町だった。東村山町が市制を施行して東村山市となったのは1964年である。そのため、正確には町だった時代の東村山で生まれ、現在の東村山市で少年時代を過ごした人物ということになる。
テレビ東京の『出没!アド街ック天国』が2006年に放送した東村山特集では、志村さんは高校生まで東村山で過ごしたと紹介されている。中学時代には同級生とバンドを組み、ギターを担当していた。
新潮社の著者プロフィールによると、志村さんはザ・ドリフターズの付き人を経て、1974年に正式メンバーとなった。その後、『8時だョ!全員集合』で人気を獲得し、加藤茶さんとのヒゲダンスや「カラスの勝手でしょ」など、数々の流行を生み出した。
志村けんさんにとって東村山は心安らぐ故郷だった
志村さんと東村山のつながりは、芸能活動による地域貢献だけではない。本人も故郷への愛着を語っていた。
2015年、市制施行50周年に合わせて設置された「志村けんの木」の記念看板をめぐり、東村山市の市報に掲載された渡部尚市長との対談では、帰郷した際の気持ちについて次のように話している。
「自分のふるさとがあるっていうのは、とても良いことで、ほっとしますね」
この言葉から伝わるのは、東村山が単なるプロフィール上の出身地ではなく、長く芸能界で活躍した志村さんにとって、自然体に戻れる場所だったということだ。
全国的な人気を得た後も故郷との縁は続き、地元の記念事業や市民との交流にもつながっていった。
【1976年の大ブレイク】東村山音頭の誕生の由来と志村けん版の秘密
東村山と志村けんさんの名前を全国に結び付けた最大のきっかけが「東村山音頭」だ。
ここで押さえておきたいのは、東村山音頭そのものを志村さんが最初から作ったわけではないという点である。もともと地元に存在した楽曲を、テレビのお笑いとして大胆にアレンジしたことが成功の理由だった。
東村山音頭の原曲は1961年に地元の農協が制作
東村山音頭の原曲は、1961年(昭和36年)に東村山町農業協同組合が中心となって制作した郷土の音頭である。
西武鉄道と東村山市が2020年に発表した共同資料によると、原曲の作詞は土屋忠司、作曲は細川潤一。地元の魅力を伝える楽曲として制作され、市内の盆踊りなどでも親しまれてきた。
つまり、東村山音頭は地域の文化として先に存在し、後から志村さんのアレンジによって全国に広まったのである。
1976年、『8時だョ!全員集合』で人気が爆発
転機となったのは1976年3月のことだった。
TBS系の人気番組『8時だョ!全員集合』には、メンバーやゲストが歌を披露する「少年少女合唱隊」というコーナーがあった。地元にちなんだ歌を披露する趣向のなかで、志村さんが歌ったのが東村山音頭だった。
当時、正式メンバーになって間もない志村さんは、独自の笑いを確立する途上にあった。そこで披露した東村山音頭は、単なる民謡の歌唱ではなく、衣装や歌い方、独特の振り付けを取り入れたコミカルなパフォーマンスだった。
特に印象的だったのが、四丁目から三丁目、一丁目へと展開していく構成である。
「いっちょめ、いっちょめ、ワーオ!」という独特の掛け声は、子どもたちを中心に大きな人気を集めた。三丁目にはザ・ドリフターズのリーダー、いかりや長介さんも関わり、一丁目は志村さん自身の創作が加わった構成として知られている。
音楽面でも志村さんの個性が表れた。ラジオ番組の解説では、一丁目の「ワーオ」というシャウトについて、ファンクミュージックの影響、特にジェームス・ブラウンの表現との関連が紹介されている。
民謡をそのまま歌うのではなく、音楽的な感覚と身体表現を組み合わせた点に、志村さんならではの工夫があった。
1976年にはレコード化。東村山の知名度を全国へ
人気の広がりを受け、同年には「志村ケンの全員集合 東村山音頭」としてレコード化された。国立国会図書館の録音資料目録にも、1976年発売の音源として登録されている。
この成功によって、東村山は全国の視聴者に知られるようになった。志村さんのギャグを通じて地名そのものが笑いと結び付き、地元の人々にとっても特別な存在となっていった。
よくある誤解:「東村山一丁目」という住所は実在する?
実は、志村さんの歌に登場する「東村山一丁目」「東村山三丁目」「東村山四丁目」は、そのままの町名として存在するわけではない。
東村山市には本町、栄町、多摩湖町などの町名があり、その中に丁目が付く住所がある。歌の「東村山一丁目」を探しても、独立した町名として見つからないのはそのためだ。
当時、子どもたちが東村山を訪れて「一丁目はどこですか」と尋ねたというエピソードも地域に伝わっている。地名を使ったギャグが、実際の街を訪ねる動機になるほどの影響力を持っていたことが分かる。
【東村山駅前の名所】志村けんの木とアイーン銅像はどこにある?
志村けんさんの功績を実際に目で見られる場所が、西武鉄道の東村山駅東口ロータリーである。
駅前には「志村けんの木」と呼ばれる3本のケヤキがあり、その近くに志村さんの銅像が建立されている。東村山を訪れるファンにとって、最も分かりやすい記念スポットだ。
1970年代に植樹された3本のケヤキ「志村けんの木」
志村さんが東村山音頭で市の知名度向上に貢献したことを受け、東村山市は1976年に感謝状を贈った。その功績をたたえる記念として植えられたのが、3本のケヤキである。
テレビ東京の過去の放送記録では、植樹は1977年(昭和52年)と紹介されている。また、東村山市の秘書広報課への取材を掲載したJタウンネットによると、木は市の緑化組合から寄贈されたもの。当初は別の場所に植えられ、駅の整備に伴って現在の場所へ移されたという。
ケヤキが3本ある理由について、市の担当課は市の木がケヤキであることとの関係も考えられると説明している。
2015年3月には、市制施行50周年を記念して記念看板が設置された。「志村けんの木」という文字は志村さん本人の直筆である。
2021年6月26日、アイーンポーズの銅像が完成
志村さんの死去後、東村山では銅像を建立するプロジェクトが立ち上がった。
中心となったのは、地元の青年会議所や商工関係者らで構成された「志村けんさん銅像プロジェクト実行委員会」。2020年9月からクラウドファンディングを開始し、全国のファンに支援を呼びかけた。
READYFORに掲載された実行委員会の最終報告によると、結果は次のとおりだ。
- 目標金額:2,400万円
- 支援総額:2,744万2,905円
- 支援者数:6,630人
- 募集終了:2020年10月30日
- 完成・除幕:2021年6月26日
銅像は和装姿で、志村さんの代表的なギャグ「アイーン」のポーズを再現している。像の背後には、支援者から寄せられた志村さんゆかりの写真を使ったモザイクアートも設置された。
東村山市商工会の観光ガイドでも紹介されているこの銅像は、単なる有名人の記念碑ではない。全国6,630人の支援者が資金を出し合い、地元とファンが一緒に完成させた記念物である。
そのため、銅像の周囲には志村さん本人への思いだけでなく、長年笑いを届けてもらった人々の感謝も込められている。
【保存版・年表】志村けんさんと東村山市を結ぶ重要な出来事
ここまでの経緯を時系列で整理すると、東村山と志村さんの関係がどのように深まっていったのかが分かる。
| 年代・日付 | 出来事 | 東村山との関係・意味 |
|---|---|---|
| 1950年2月20日 | 志村けんさん誕生 | 当時の北多摩郡東村山町で生まれる |
| 1961年 | 東村山音頭を制作 | 地元の農業協同組合が中心となって制作 |
| 1974年 | ザ・ドリフターズ正式メンバーに | 芸能活動が本格化 |
| 1976年3月 | テレビで東村山音頭を披露 | 『8時だョ!全員集合』で全国的な人気を獲得 |
| 1976年 | 東村山市から感謝状 | 地域の知名度向上への貢献を評価 |
| 1977年 | ケヤキ3本を植樹 | 現在の「志村けんの木」につながる記念樹 |
| 2014年12月 | 駅の発車メロディに採用 | 市制施行50周年を記念した取り組み |
| 2015年3月 | 記念看板を設置 | 志村さん直筆の文字を使用 |
| 2020年3月29日 | 志村けんさん死去 | 70歳。東村山でも追悼の動きが広がる |
| 2020年6月25日 | 東村山市名誉市民に選定 | 市議会で全会一致により可決 |
| 2020年7月14日 | 東村山音頭の発車メロディ復活 | 西武鉄道と東村山市による追悼・顕彰 |
| 2021年6月26日 | 志村けんさんの銅像完成 | 全国のファンと地元有志の支援で建立 |
| 2026年3月29日 | 七回忌 | 東村山市長も遺族を訪問し追悼 |
この年表から読み取れるのは、東村山と志村さんの関係が、一度のテレビ出演だけで終わらなかったということだ。
1976年のブレイクを起点に、感謝状、記念樹、駅の発車メロディ、名誉市民、銅像と、地元による顕彰が段階的に積み重なってきた。
【2026年最新】東村山の志村けん観光スポットと駅前へのアクセス・発車メロディ
2026年に東村山を訪れるなら、まず目指したいのが東村山駅東口だ。志村けんの木と銅像が同じ駅前エリアにあるため、初めて訪れる人でも比較的簡単に見学できる。
志村けんの木・銅像へのアクセス
記念スポットの基本情報は次のとおり。
- 最寄り駅:西武鉄道・東村山駅
- 出口:東口
- 所在地:東京都東村山市本町2丁目
- 場所:東口駅前ロータリー
- 見学:屋外の公共スペースで見学自由
- 主な見どころ:3本のケヤキ、志村けんさんの銅像、写真モザイクアート、記念看板
駅の東口を出るとロータリーがあり、その周辺にケヤキと銅像がある。駅からすぐの場所なので、長時間歩く必要はない。
銅像では、志村さんの代表的なギャグである「アイーン」のポーズを確認できる。背後のモザイクアートも見どころで、全国の支援者が参加した建立プロジェクトの記憶を伝えている。
写真撮影を目的に訪れる場合は、歩行者や駅利用者の通行を妨げないようにしたい。公共スペースなので、周辺の店舗や住宅にも配慮して見学しよう。
東村山駅の発車メロディは「東村山音頭」
東村山駅では、発車メロディとして東村山音頭が採用されている。
最初に採用されたのは2014年12月1日。東村山市の市制施行50周年を記念した取り組みで、2016年3月まで一部ホームで使用された。
その後、2020年3月に志村さんが亡くなり、同年6月25日に名誉市民に選定されたことを受け、西武鉄道と東村山市は発車メロディの復活を決定した。
2020年7月14日の始発から1番・2番ホームで使用が再開され、志村さんの功績をしのぶ音として再び駅に響くようになった。
西武鉄道の2020年の発表では、使用された音源は2014年の市制施行50周年記念事業で制作されたもの。1番ホームと2番ホームでは異なるアレンジが流れる仕組みだった。
さらに、2026年4月時点の鉄道発車メロディの利用状況記録でも、国分寺線の1番・2番ホームで東村山音頭が使用されていると整理されている。
ただし、東村山駅では高架化工事に伴ってホームや駅構内の動線が変更されている。実際に音を聞きたい場合は、当日の番線案内や駅放送を確認してから乗車するのがおすすめだ。
2026年の現地情報で注意したい駅前再整備
2026年の東村山駅周辺では、西武新宿線などの連続立体交差事業に伴う高架化工事が進んでいる。西武鉄道の公式駅案内でも、ホームや通路の一部が狭くなっているとして利用者に注意を呼びかけている。
2026年1月に公開された現地訪問記録では、駅前のケヤキ3本と志村さんの銅像が確認されている。高架化工事が進む駅前では、以前とは異なる仮設の出入口や通行経路が使われている。
さらに注目されるのが、東口駅前広場の再整備だ。
2025年2月の地域報道によると、駅前広場の再整備基本計画に伴い、志村けんの木の3本のケヤキのうち2本が配置上の支障となり、移植や伐採が検討課題になった。銅像やモニュメントについても、広場中央付近への移設案が報じられている。
この問題は、単なる街路樹の配置変更ではない。1970年代から地域の記憶を伝えてきた木を、駅前の利便性向上とどう両立させるかという課題でもある。
2026年度も東村山駅周辺のまちづくりや東口広場の再整備が進められる計画となっている。ケヤキの最終的な配置については、今後の市の設計や発表を確認する必要がある。
訪問する際は、工事柵や仮設通路の案内に従い、立ち入り禁止区域には入らないようにしたい。記念スポット自体は駅前にあるため、工事中でも駅の案内表示を確認すれば訪問しやすい。
【2026年3月29日に七回忌】志村けんさんはなぜ今も東村山で愛されるのか
志村けんさんは2020年3月29日、新型コロナウイルス感染による肺炎のため70歳で亡くなった。
2026年3月29日は、亡くなってから丸6年にあたる七回忌だった。七回忌は仏教の年忌法要の数え方で、亡くなった年を1回目とするため、没後6年に営まれる。
2020年6月、東村山市の名誉市民に選定
志村さんの死去後、東村山市では多くの市民やファンから追悼の声が寄せられた。
日刊スポーツの2020年6月25日の報道によると、東村山市議会の6月定例会で、志村さんを名誉市民とする議案が全会一致で可決された。
選定理由は、東村山音頭を独自の衣装や歌詞、メロディーで披露し、東村山という地名を全国に広めたこと、そして世代を超えて愛される喜劇人として多くの人に夢や希望、元気を与えたことなどである。
同報道では、志村さんの死去後、市のホームページに約2万2,000件の追悼メッセージが届いたことも伝えられている。
名誉市民への選定は、芸能人としての人気だけでなく、地域の歴史や文化に貢献した人物として、東村山市が公式に功績を認めた出来事だった。
2026年の七回忌、市長が遺族を訪問
2026年4月2日のテレビ朝日ニュースは、東村山市の渡部尚市長が七回忌に際し、志村さんの兄・知之さんの自宅を訪問したことを報じた。
市長は3月31日に志村家を訪れ、志村さんの位牌が安置された仏壇に線香をあげたという。志村さんの命日にあたる3月29日に七回忌を迎えたことを受けての追悼だった。
また、市長は全国から墓参に訪れるファンが今も花や供物を手向けていることにも触れ、志村さんが深く愛され、慕われていることを伝えた。
亡くなって6年が経過しても、故郷の市長が遺族を訪問し、地域として追悼を続けている。東村山にとって志村さんが今も特別な存在であることを示す出来事だ。
志村けんさんの功績は「笑い」と「地域ブランド」の両方にある
志村さんが東村山に残したものを考えるとき、見逃せないのが地域ブランドへの貢献である。
通常、自治体が全国的な知名度を獲得するには、観光資源の整備や広告、イベントなどに継続的な費用と時間を必要とする。しかし、志村さんの場合はテレビの人気番組を通じて、地名そのものが全国の視聴者に浸透した。
しかも、広まったのは単なる地名ではない。「東村山」と聞けば、東村山音頭や志村さんのコミカルな衣装、独特の掛け声を思い出すという文化的な結び付きが生まれた。
これは、芸能人が地元の名前を広めるだけでなく、地域にとって代えがたい物語を生み出した例といえる。
また、志村さんのギャグには、子どもから大人まで真似しやすい身体表現が多かった。「アイーン」や「だっふんだ」などは、テレビを見て終わるだけではなく、家庭や学校、友人同士の会話に持ち込める笑いだった。
その再現しやすさが世代を超えた人気を支え、結果として東村山という地域名も長く記憶されることにつながった。
東村山駅前の銅像が「アイーン」のポーズを採用したのも、志村さんの笑いが持つ分かりやすさと親しみやすさを象徴している。
【東村山と志村けん】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:志村けんさんは本当に東村山市出身ですか?
A1:はい。1950年、当時の東京都北多摩郡東村山町に生まれました。高校生まで東村山で過ごしたこともテレビ東京の番組記録などで紹介されています。
Q2:東村山駅の志村けんさんの銅像はどこにありますか?
A2:西武鉄道・東村山駅の東口ロータリーです。3本のケヤキ「志村けんの木」の近くにあり、和装姿で「アイーン」のポーズを取る銅像を見学できます。駅からすぐの場所で、屋外の公共スペースとして見学できます。
Q3:東村山音頭は志村けんさんが作った曲ですか?
A3:原曲を作ったのは志村さんではありません。1961年に東村山町農業協同組合が中心となって制作した地元の音頭です。志村さんは1976年に『8時だョ!全員集合』で独自のアレンジを披露し、全国的な人気に広げました。
まとめ:【プロの結論】東村山と志村けんの関係は未来へ受け継がれる
東村山と志村けんさんの関係は、出身地という個人的な縁から始まり、1976年の東村山音頭の大ヒットによって全国的な結び付きへと発展した。
その功績は、1970年代の記念植樹、2015年の直筆看板、2020年の名誉市民選定、2021年の銅像建立、そして駅の発車メロディという形で今も残っている。
特に2026年は七回忌を迎えた節目であり、東村山駅周辺の再整備も進む年だ。駅前の景色が変わっていくなかで、志村けんの木や銅像をどう守り、次の世代に伝えていくかは、地域にとって大切な課題となっている。
プロの結論として重要なのは、志村けんさんが東村山音頭を作った人物かどうかではなく、既存の地域文化を全国的な笑いへと変換した功績に注目することだ。
地元で生まれた音頭を、テレビという大きなメディアを通じて全国に届け、最後には故郷の名前そのものを人々の記憶に刻んだ。これは、芸能人と地域の関係を考えるうえでも興味深い事例である。
東村山を訪れるなら、駅前の銅像で「アイーン」のポーズを見るだけでなく、3本のケヤキが植えられた経緯や、発車メロディに込められた地域の思いにも目を向けてほしい。
志村けんさんが全国に届けた笑いと、東村山という故郷の名前。その二つが結び付いた物語は、七回忌を迎えた2026年以降も、街の風景とともに受け継がれていく。